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現在の興味関心について

現在は「教育目的論」に関心があります。
それについてまとめてみました。



1、研究の動機

教育は何のためにあるのか。この問いに向き合う教育関係者が減っているのではないだろうか。かくいう私だって、こんな本質的な問いと向き合うことがなくても14年間も学校の先生をすることができた。だから、そもそもこんな「ややこしい問い」には触れなくてもいいのかもしれない。

学校にはたくさんの「目標」がある。「忘れ物をしないようにしよう」、「先生の言うことは聞こう」「友達と仲良くしよう」、「給食は残さず食べよう」・・・。これらの目標は「課題」とも言い換えられるだろう。そう、学校には「課題が山積している」のだ。だから、その課題へ対応しているだけで、教育はなんとなく成立してしまうし、おそらく、これまでもそうしてきた。教育は常に教育の外側からの要請によって、その目的が外在的に規定されてきたとも言える。

つまり、教育が目的を見失ったことは今に始まったわけではない。むしろ、これまでも「明確な目的」がないままにやってきたのである。だったら、もういいではないか。「寝た子を起こすな」ということである。

しかし、そうは言っていられなくなってきた。教育が目的を見失っている隙に、学校教育を積極的に利用する勢力が現れてきた。それは「資本」と「思想」である。具体的には「新自由主義」と「新国家主義」である。これらの勢力の介入の力は凄まじく、今や学校教育は、それらの下請機関の様相を呈している。「どうしてするのか(目的)」が問われないまま、「どのようにするのか(方法・技術)」ばかりを追い求める学校現場への不信感というのが研究の動機である。


2、先行研究の概観

原聡介 『近代における教育可能性概念の展開を問う ― ロック、コンディヤックからヘルバルトへの系譜をたどりながら』 1992

・原は本論文の中で、教育可能性論という視点から、「必要だからというより、可能だから教育する」、「何のためにやるかわからないけど、やればできるからやる」という目的なき教育の状態を「乱開発」と表現している。

宮寺晃夫「近代教育学における「目的論」の位置 原氏提案に対する一つのコメント」1992

・ゴールとしての目的ではなくて、ルールとしての目的という提案。ゴールとは「子どもや社会に対する願いや企みにより、よくもあしくも、一般的にも個人的にも、さまざまに設定される」ものである。一方、ルールは「スポーツやゲームのルールがそうであるように、個人の恣意を排除するために公共的に合意されたもの」である。「ゴールとしての外在的目的よりも、ルールとしての内在的目的の方が正当化機能の点で有効であった」

宮寺晃夫「教育目的論の可能性 : 教育目的の正当化論を求めて」1993

・「個別の教育目的意識の「過剰」の中で、共通の統一的教育目的が「喪失」している」という問題意識から、目的論を今日の社会のなかで再定立するには、「教育目的の正当化論」の整備が必要だと説く。しかし、ポストモダンを経た現在、正当化論の整備は、もはやどれか特定の価値観によってはなしとげられない。そうするにはあまりに価値観が多様化し、相対化している。そこで、多様な価値観を包摂する全体の「枠組み」、しかもそれ自体は特定の価値観に依存しない「枠組み」を築くことが必要とされる。

尾崎博美 『教育目的論における「教育目標」概念の分析 「教育目標」―「教育目的」の関係性の再検討を通して』 2009

・尾崎は、通常言われる「目標→目的」という階層性から、「目的を具体的な行動として記述したのが目標だ」というのが、実は学校教育ではそうはなっていないと述べる。つまり、教育目標はテイラーの科学的経営における「生産目標」を援用した概念であるといい、数値化や具体化は避けられず、そうなると、どうしても抽象的な「教育目的」からはズレていく。

宇沢弘文「社会的共通資本」2000

・宇沢は人間社会に必要な社会的装置としての「社会的共通資本」を提唱し、それを3つに分けている。それは「自然環境」、「社会的インフラストラクチャー」、そして「制度資本」である。教育は「制度資本」にあたる。社会的共通資本は、「職業的専門家集団」による「専門的知見」と「職業的倫理観」によって管理運営されなければならない、とする。


3、論文の構成案

問題の所在

 現在の学校教育は「目的」を失っている。「何のために(why)」は問われないまま、「どうやるか(how)」や「何をやるか(what)」ばかりに専心している。一方で「目標」は過剰である。教育課題は常に山積しております、その対応に忙殺されている。その結果、教師は目の前の目標チェックリストを片手に「チェックリスト潰し」のように教育実践を行わざるを得ず、思考停止せざるを得ない。

先行研究の概観

 そのような「目的不在」状態の教育について、原(1992)は「必要だからというより、可能だからする教育する」と表現し、これを子どもたちの教育可能性の「乱開発」と表現した。実際、様々な「効果的な教育実践」が現場には溢れる。その内の「どれをするか」という問いは生まれても、「どうしてしているのか」という問いは出てこない。GIGAスクール構想が良い例である。「どう使いこなすか」という議論の中に、「使わない」という選択肢は用意されておらず、委員会による端末利用率調査が頻繁に行われ、「使っていない」ことを、悪とか怠惰とみなす風潮が現場にはある。

 原の論文に対して出された宮寺(1992、1993)のコメント論文は興味深い。宮寺は「ゴールとしての目的」から「ルールとしての目的」を提案する。「ゴールとしての目的」だと、それは崇高で理想的なものが求められてしまい、それは価値観が多様化した現在では困難である。一方で「ルールとしての目的」であれば、「手続きの正当性」させ確保できれば、その内容については、柔軟に対応できる。しかし、これは言葉ほど簡単ではない。「合意形成」においては少数派が排除されがちであるし、決まったらそれで良しというわけでもない。

教育目的、教育目標という用語

 尾崎(2009)は、「教育目的」と「教育目標」の言葉の違いについて考察している。通常、「目標→目的」という階層差があると認識されているが、教育の場合はそうではないと尾崎は述べる。「教育目標」はテイラーによる「科学的経営」における「生産目標」を援用した概念であり、これは必然的に「数値化」や「具体化」は避けることができない。「かけ算ができる」ならまだ目標として機能するかもしれないが、「主体的に活動できているか」などは抽象的すぎて、目標として機能し得ない。つまり、目標は目的からかけ離れていくことになるのだ。

目的は外在か内在か

 目的を設定するとすれば、それは教育の外側で決めるような外在的な目的が良いのか、それとも、教育実践の中から出てくる内在的な目的が良いのであろうか。

教育哲学者J・デューイは「教育そのものにはどのような目的もない。目的を持つのはただ人であり、親であり、また教師などであって教育のような抽象概念がそれを持つわけはない」と言ってのけている。これは、まさに教育目的の内在論の典型であろう。実際、先述の通り、学校教育の現場においては、教育目標は意識されても教育目的が意識されることは極めて稀である。つまり、教育は目的が意識されなくても実践できてしまうのだ。これは目的の喪失とも見れるし、目的は内在的にあるから設定する必要がないとも考えられる。

一方で、宮寺(1993)が指摘しているように「天下る目標を押し頂けばよいだけ(p2)」という状態、つまり教育は外在的に決定されて、現場はそれに合わせて教育実践をするということになれば、それは容易に権力者に利用されてしまう。実際、学校現場には「〇〇教育」が数多くある。長期休暇前には郵便局から「手紙の書き方講座」としてハガキが送られ、原子力への不満が高まれば原子力への理解を深めるための小冊子が配布された。学校教育が、使い勝手の良い「御用機関」になるのを良しと思う教育関係者はいないであろう。

外在論の否定、実践家による自治〜社会的共通資本〜

 そのような目的外在論を認めない理論がある。それは経済学者である宇沢弘文が提唱した「社会的共通資本」である。これは人間的に魅力ある社会を持続的安定的に維持することを可能にする自然環境や社会装置のことをいう。これらの管理は、「職業的専門家集団」による「専門的知見」と「職業的倫理」によって運営される必要がある。

 猫の目のように変わる「政治」や「経済」が、教育に介入することを防ぐための論理である。

内在論の否定、倫理的規制の必要性〜歯止めとしての倫理〜

 では、社会的共通資本である学校教育は、教職員集団による自治がなされればそれで良いのであろうか。私はそうは思わない。それは、原(1992)が指摘するように、目的なき教育実践は、発達論や教育可能性論を持ち出して、安易に子どもたちを「乱開発」するきらいがあるからである。学校教育を「学歴社会をより高く上るための梯子」と考え、学習の目的を「よりよい就職のため」と考える保護者や教師は数多くいる。彼らの手にかかれば、学校は際限なく子どもを追い詰める。実際、20万人を超える不登校は、そのような「無節制な教育実践」の被害者なのではないだろうか。

 不登校傾向児と関わった私の経験からも、「学習への苦手意識」や「先生の叱りが怖い(教師の管理欲求)」などの声は多数聞かれた。それを防ぐためにも、学校現場に「丸投げ」ではなくて、子どもたちを守るための「倫理的指針」を設定する必要はあるだろう。

目的設定の主観性・恣意性を乗り越える

 しかし、その「倫理的指針」の設定には最大限の注意を払わねばならない。このような価値判断は、主観性・恣意性がすぐに入り込んでしまう。

 「九九の学習」が良い例である。「できないままだと将来困る」という善意から、教師は簡単に子どもたちを「追い詰めて」しまう。休み時間も放課後も、ずっと九九を唱え続けさせられた子どもたちは、「九九はできたけど、勉強は嫌いになった」となってしまう。では、「できないまま」で良いのかといえば、次の学年になったら「九九はできているもの」として一斉授業は進行する。九九ができない子どもをケアする余裕は、一般的な教室にはない。「追い詰めて」でも「できるようになる」が良いのか、それとも「できるようになる」まで「待つ」のが正解なのか。それは一義的にこの場で決定できることではない。


(提案A)教育の不可能性、悲劇性〜他者論からの教育実践〜

 ここで、「教育の不可能性」ということを考えてみたい。

他者論を扱う森岡次郎は、「教育とは、長期的で不確実な営みである。」とした上で、「目の前の生徒を、自分だけの力で、自分の意図通りに変容させることはできない」と述べる。だから「まずは、この現実としての不可能性を許容するしかない。それは、けっしてネガティブなことではない。教師の意図を超えて、望外な結果が得られることもある。」と言う。

思想家内田樹も、上記の「教育のすれ違い」を「教師は同じことばを語り、同じ情報を伝えているつもりでも、ひとりひとりが受け取るものは違います。生徒たちが一人の教師から同じ教育情報を受け取るということはありえないのです。(『先生はえらい』p41.42)」

さらに、ジャック・ラカンは、教える者と教わる者の持つダイナミックな関係性を以下のように述べます。「教えるということは、非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、すくなくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。(中略)無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです。誰かが教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということなど決してありません。(『自我(下)』p56)」

「教える」は「インストール」ではない。人が人に教えるというのは、もっと複雑でダイナミックな営みであるならば、それをわかった気になるわけでもなく、かといって、必要以上に怯えることもなく、真摯に向き合い続けることが必要なのではないだろうか。これを「開放性」を持つとも言い換えてもいい。教える者には、つねに「開かれ」が求められている。

むすびに変えて

 「よくわからない、けど、今日も子どもたちの前に立たないといけない」

 教師には、このような「諦めと覚悟」が求められていると感じる。「この場合は〇〇をしたらいいよ」と、教育実践をパターン化して解釈してしまうベテラン教師は多いが、そういう教師に限って苦しむ時代になってきた。もうお決まりのことを演じるだけでは、学校教育は成り立たなくなっている。しかし、管理の力は一層、強まっている。説明責任を果たすために教育実践を画一化しようとする動きは確かにある。だが、それにより失われるのは「教師の主体性」である。「足並みを揃える」ことばかり意識していたら、目的など考える余裕もなくなる。

「どうして我々は教育をしているのか」という複雑な問いを放棄してしまった教育実践は、単なる「訓練」へと成り下がることであろう。そうならないためには、我々はつねに「目的」に立ち返る必要がある。それは抽象的なことかもしれない。具体場面には適用できないものかもしれない。でも、抽象と具体の往還を忘れてしまえば、それは管理と訓練という、工場や軍隊に類する場所になってしまう。結局は、教師一人一人の「倫理」を高めていくという曖昧な提案にならざるを得ないのは、教育が子どもたちという「よくわからない他者」と関わる複雑な営みだからであろう。



でも、この提案だとなんだか弱いので、こちらの提案も考えてみました。


(提案B)「公共的な市民の育成」と「公正の感覚の涵養」

教育の目的は「民主主義を担える公共的な市民」の育成である。そして、現状ではそれが達成できているとは思えない。民主主義とは「選挙」とか「多数決」のみを示す言葉ではない。それは、一人一人の当事者意識の涵養である。ポストモダンを経た多様性を謳う社会においては、「明確な正解」は提示できないけども、「まあ、この辺りならいいか」という「公正」の感覚ならば、まだ無限遠点ほどには遠くない気もする。それを、学校教育を通して達成していきたい。

シティズンシップ教育というほど大仰しいものではない。それはG・ビースタの提唱する「あなたはあなたのままでいいのだよ」という「主体化」の達成であったり、「みんなのことは自分のこと」という「公共の感覚」であったり、学校の教室のいつものルーティンの中にも容易に入れ込むことができるような簡単な目的だったりする。

そもそも「教育改革」というものはうまく行った試しがない。改革の過程にはいつも「コラテラルダメージ」が存在する。現場の否定からの改革というよりは、現状のわずかな改変の方が、負担も少ない。教師を疲弊させる弊害は、全て弱者である子どもたちに返ってくるのだから。