めがね旦那

中堅小学校教諭 単著は6冊ほど 内田樹先生公認伝道師を拝命しております きのくに子ども…

めがね旦那

中堅小学校教諭 単著は6冊ほど 内田樹先生公認伝道師を拝命しております きのくに子どもの村学園卒業生

マガジン

  • 「教育目的論」論争

    教育思想史学会で30年ほど前に話題になった「教育目的論」論争について、まとめています。

  • 日本の公立学校の持つ問題点

  • 日本の教育史〜自由と平等〜

    教育史を概観してみることで、私たちの「当たり前」の形成過程も見えてくるのではないかと期待します。

  • 「主体的」について考える

    「主体的」とは何を意味するのか。 学校現場では盛んに使われる「主体的」について考察していきます。

  • 『ケーキの切れない非行少年たち』を考察する。

    話題一冊ですが、その内容には疑問点も多い気がします。

最近の記事

  • 固定された記事

教育的関係における一考察〜内田樹の議論を参照しながら〜

はじめに 本稿の目的は、神戸女学院の名誉教授であり、現在は武道と哲学のための学塾・凱風館の館長である内田樹(1950-)の教育観を整理することで、その独自の教育哲学を考察することである。  内田の教育哲学は、自身が30年に渡り大学で教鞭を取ったことや、合気道の師範としての経験から精錬されていき、それは内田の数多くの著書の各所で展開されている。  その内容としては言語教育から宗教教育まで多岐にわたるが、今回の論考では主に内田による「教育の定義」と、「教育の好ましくない姿」とし

    • ルソーは教育学者ではない

      本記事で扱う論文は以下のリンクから読むことができます。 画面右側にある「PDFをダウンロード」という赤い部分をクリックしてください。 さて、この企画も3回目になります。 原聡介、宮寺晃夫、と続きまして、今回は森田伸子論文を紹介します。 この森田論文もまたスリリングな内容なのです。それは、教育思想史研究とは「誤読」である、という命題に集約されます。この森田テーゼは以後、何回か言及されることになりますので、覚えておいてもいいかもしれません。 それと、森田氏が述べる「真の目的論」

      • ゴールとしての目的、ルールとしての目的

        本記事で扱う論文は以下のリンクから読むことができます。 画面右側にある「PDFをダウンロード」という赤い部分をクリックしてください。 今回扱う論文は、前回の原論文に対して書かれた「コメント論文」です。書かれたのは宮寺晃夫さんです。宮寺さんの書かれた『リベラリズムの教育哲学』という本は僕も何度も読んでいます。 この宮寺論文については、原論文との「すれ違い」が指摘されています。しかし、論争というのはすれ違いでさえ楽しめるなと僕は感じています。というのも、今回、宮寺さんが提案す

        • 目的なき教育技術への警戒

          本記事で扱う論文は以下のリンクから読むことができます。 画面右側にある「PDFをダウンロード」という赤い部分をクリックしてください。 さて、本記事は「私自身のために」書かれた記事であることを始めにお断りしておかないといけない。これは、私の研究を深めるために書かれたものである。しかし、だからと言って読みにくいというわけではない(はずである)。 文章としてnoteなどで記事に出すと、それを読む人がいる。読んだ人は「勉強になった」と思うかもしれないが、当然、最も勉強になっている

        • 固定された記事

        教育的関係における一考察〜内田樹の議論を参照しながら〜

        マガジン

        • 「教育目的論」論争
          3本
        • 日本の公立学校の持つ問題点
          4本
        • 日本の教育史〜自由と平等〜
          16本
        • 「主体的」について考える
          6本
        • 『ケーキの切れない非行少年たち』を考察する。
          4本
        • 教育と学習
          7本

        記事

          叱るか褒めるか

          「教師」は教室における「権力者」である。 それは、教師が子どもたちに「何かをさせる」という点からも明白であろう。 子ども側がそれを拒否してしまえば、それは「学級崩壊」であり、教師を入れ替えることになる。 三権分立という言葉を習った人は多いだろう。 「立法・司法・行政」の権力を分散し、権力の集中を防ぐというアレだ。 しかし、教室における教師は「三権の長」である。 教室のルールを決め(立法)、児童の喧嘩の仲裁をし(司法)、学級の運営をしていく(行政)。 学級王国という言葉が表し

          叱るか褒めるか

          「教育勅語」制定前の状況について

          以下の2つの資料を元に教育勅語成立前の状況をまとめる。 ・『教育勅語と御真影 近代天皇制と教育』 小野雅章著 講談社現代新書 2023 ・『「徳育論争」の再検討−教育勅語発布直前の道徳教育をめぐる議論の検証から− 高瀬幸恵 2018 教育勅語成立の背景 教育勅語は、1890年10月30日に明治天皇が内閣総理大臣と文部大臣に勅語を授け、翌日『官報』に掲載するという地味な形で世に出ることになる。この時に勅語を受け取った、山形有朋首相と芳川顕正文相はそれぞれに制定過程を振り

          「教育勅語」制定前の状況について

          現在の興味関心について

          現在は「教育目的論」に関心があります。 それについてまとめてみました。 1、研究の動機 教育は何のためにあるのか。この問いに向き合う教育関係者が減っているのではないだろうか。かくいう私だって、こんな本質的な問いと向き合うことがなくても14年間も学校の先生をすることができた。だから、そもそもこんな「ややこしい問い」には触れなくてもいいのかもしれない。 学校にはたくさんの「目標」がある。「忘れ物をしないようにしよう」、「先生の言うことは聞こう」「友達と仲良くしよう」、「給食

          現在の興味関心について

          教育勅語についての「まとめ」

          山口輝臣/福家崇洋編 『思想史講義【明治編Ⅱ】』 ちくま新書 の第二講「教育勅語」をまとめました。 現在でも主に右翼政治家などから「教育勅語一部容認論」がでてきますが、その成立過程についてはあまり知られていません。 一緒に勉強していきましょう。 ・教育勅語=教育ニ関スル勅語 大日本帝国憲法 施行の1890年10月30日に天皇より首相と文相に授けられる 日本国憲法   施行の1948年に排除ないし失効確認(衆参両院にて)  <約58年間、教育勅語は効果を有していた。

          教育勅語についての「まとめ」

          愛着障害と、現象学の相互主観性理論についての研究ノート

          大塚類著 『施設で暮らす子どもたちの成長:他者と共に生きることへの現象学的まなざし』の序章と第1章の内容を要約しました。 本書は、著者の博士論文を基にしています。児童養護施設における子どもの在り方を「現象学」という視点から研究した一冊です(現在は絶版)。 講義のために要約したのですが、せっかく10時間くらいかけてまとめたので、こちらにも公開しておきますが、初見だとよくわからないかもしれません。講義では、文献購読をするので、全員が一読しているという前提です。 序章 本書の課

          愛着障害と、現象学の相互主観性理論についての研究ノート

          教育は「もぐらたたき」でいいのか

          教育が「もぐらたたき」になっているということを危惧している。しかし、これでは読者諸氏には伝わらないと思うので、これから色々な話をしながら、問題意識を共有していけたらと思う。 教育学が生まれて200年が経った。 これは、まあ諸説あるがヘルバルトあたりを教育学の祖として考えた場合には妥当な年数になるだろう。 もちろんこれはヘルバルトではなく、ルソーでもコメニウスでも構わない。 コメニウスは、人を「神の似姿」にするために「すべての人に、この世界のすべてを教える」という使命感のも

          教育は「もぐらたたき」でいいのか

          児童理解という暴力、そして、理解を諦めない倫理

          今回は「児童理解」という言葉について考えてみたいと思います。この言葉は学校現場では頻繁に使われる言葉です。しかし、「児童を理解する」ということは一体、どういうことなのでしょうか。何を持って「児童を理解した」と言えるのでしょうか。そんなことを考えてみたいと思います。 まずは理解についての興味深い見解から見ていきましょう。 「お前の言いたいことは、もうわかった」というのは「理解」の対極にあると思想家である内田樹は以下のように述べています。 ここからわかることは、「わかった」と

          児童理解という暴力、そして、理解を諦めない倫理

          教育学における「規範欠如」問題に関する一考察

          要旨 本論考では、まず教育学における「規範欠如」について論じる。日本における近代公教育が始まった約150年の間に、教育に対する社会のまなざしは変化してきた。それに伴い、学校教育に求められるものも変化してきたのである。 明治初期は近代国家における「国民」の育成が喫緊の課題であり、戦前までは国家主義イデオロギーを扶植するための装置にあり、昭和の中頃までは学歴社会を高く上昇していくための場所だったのだろう。もちろん、これらは時代ごとに明確に区分できるものではない。しかし、学校

          教育学における「規範欠如」問題に関する一考察

          規範が欠如した教育の問題点

          教育学には規範が欠如しているという話をしようと思う。 これは言い換えると「何のために教育をしているのか」という問いに対して、教育学は答えることができていない、という話である。 教育という営みは「方向づけ」である。それは、教師が子どもたちに「教える」という点からも明らかであろう。そして、教育が「方向づけ」である以上「どの方向に進んでいくのか」というのは死活的に重要な問題でもある。公教育という以上、みんなで揃って崖の方へ行ってしまうのは自滅への道である。 しかし、それができて

          規範が欠如した教育の問題点

          「民主主義の緩慢さ」は大切という話

          「民主主義の緩慢さは大切である」という議論を見た。 今、流行りの哲学者であるマルクス・ガブリエルの著書『世界史の針が巻き戻るとき』の中に出てきたのだ。 民主主義の「遅さ」に対して、独裁国家の場合は「早い」のだ。独裁国家の場合、議論をして納得ができない場合は議論を続ける必要はない。より強い者が弱いものを「抹消」したらいい。実際、中国やロシアでは権力者に楯突いた人たちは行方不明になってしまう。 民主主義はとにかく「遅い」のである。 裁判を例に取ろう。裁判がすぐに決着することは

          「民主主義の緩慢さ」は大切という話

          「学力向上」に焦点化された学校教育で誰が得をするのか

          学校教育は何を達成するための場所なのだろう。 こんな問いが私の頭には常に浮かんでいる。これは、最近の教育行政への違和感なのか。それとも、戦後復興から経済成長を経て「失われた◯十年」まで、実はずっと学校教育を支配してきた価値観だったのか。 「学校とは勉強をするところです」 小学生に聞いてみれば、ほとんどの子どもはこう答えるであろう。そして、これは子ども自身が考えた言説ではなく、その周囲にいる大人から「学校とは勉強をするところである」という価値観を植え付けられてきたからであろう

          「学力向上」に焦点化された学校教育で誰が得をするのか

          学校の先生の転職事情

          3月の残りわずかのこの時期、SNS上では「退職の報告」をする教員が出てくるのも春の風物詩となりつつあります。 一方は「心労」で退職を決断された先生たちがいます。 彼女・彼らは、その業務の負担から年度途中から心が折れてしまっていたにも関わらず「責任感」という最後の手綱だけで、3月まで戦い抜いた勇者たちです。年度途中で辞めてしまうことの意味をよくわかっているからこその勇姿に、私は本当に拍手を送りたい。 現在の学校現場には、この「責任感」だけで、何とか毎日学校に通えている先生がた

          学校の先生の転職事情