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書籍紹介『指と耳で読むー日本点字図書館と私ー』

『指と耳で読むー日本点字図書館と私ー(本間 一夫)』という本の紹介です。


日本点字図書館の生みの親

東京の高田馬場にある日本点字図書館(通称「にってん」)を知っていますか?

日本点字図書館の外観。降りそそぐようなたくさんの鎖は知識の滝と呼ばれています。

(画像は高田馬場経済新聞より)

著者の本間一夫ほんまかずおさんはその日本点字図書館の生みの親です。もちろん本間さんのことはこの本を読む以前から知っていました。日本点字図書館ホームページには本間和夫さんの伝記冊子が掲載されています。

『見えない人の「読めるしあわせ」を叶えるために 日本点字図書館創立者 本間一夫の生涯』 

僕が盲学校で働き始めたのは2011年からです。

その頃には各自治体ごとの点字図書館はもちろん、テープではなくCDの音声図書(デイジー図書)も、日本点字図書館わくわく用具ショップも、インターネット上の点字音声図書館であるサピエ図書館も当たり前のようにありました。

このnote記事でも日本点字図書館わくわく用具ショップさんのことは度々紹介しています。

本間一夫さんの生い立ち

Wikipediaにも掲載されていますが…
本の内容を追いながら、本間一夫さんの生い立ちを紹介していきます。

本間さんは大正4(1915)年10月7日、北海道の西海岸にある増毛ましけという小さな漁師町に生まれます。実家の本間家は、酒屋や鰊漁の網元で裕福であったそうです。この実家が、後々点字図書館の大きな後ろ盾のひとつになります。

大正9(1920)年、脳膜炎にかかり、徐々に光を失います。いわゆる先天盲ではなく、5歳まで見えていた記憶がある本間さんですが、竜淵寺という檀那寺で見た「地獄絵」の掛軸の「この辺りにこんな場面があった」を覚えているほど記憶力が優れていたそうです。

眼の治療のためまず小樽へ、次いで上京し帝大病院へ通いますが回復はせず増毛に引き上げます。その後は神仏の願かけに通ったり、海水浴に通ったりします。その間に「立川文庫」や「日本児童文庫」、『少年倶楽部』、「現代大衆文学全集」などに親しみます。これらの本を暗記するまで読んでもらったことが、後の点字図書館創立につながっているのでしょう。

昭和4(1929)年、13歳で函館盲唖院に入学し「点字毎日新聞」を通して点字と出会います。そして『学海』という回覧雑誌の編集などをしながら、鍼灸科で学び、進路を考える中で、|岩橋武夫《いわはしたけお》(日本ライトハウス創立者)、|熊谷鉄太郎《くまがいてつたろう》(横浜訓盲院で視覚障がい者として初めて教員になった後に、視覚障がい者として初めて大学へ入学した)と出会います。そうした中で|好本督《よしもとただす》の著者を通して世界一大きなロンドンの点字図書館のことを知ります。

昭和11年には関西学院(現在の関西学院大学)文学部専門部英文科に入学します。当時は視覚障がい学生を受け入れている大学がほとんどなく、試験は口頭試問だったそうです。

現在は大学入学共通テストで視覚障がいへの配慮事項が設定されていますし、個別の配慮が認められた実績もたくさんあります。全国高等学校長協会入試点訳事業部のような入試問題を点訳する第三者組織もあります。

現在は大学によっては入学後の授業プリントの点訳やテキストデータなどの配付、点訳の補償や大学校内に専用のパソコンや点字プリンターが設置されているところもあります。日本学生支援機構(JASSO)には障がい学生のための『合理的配慮ハンドブック』などの資料がありますし、例えば関西SLのような視覚障がい学生と点訳ボランティアを繋ぐ団体もあります。

が、もちろん当時はそんなものはなく、教科書を友人に読んでもらって、それを自身で点字で書き自作教科書を作ったりもされたそうです。

大学卒業後は、|斎藤百合《さいとうゆり》さんが経営する東京の光陽会という盲人福祉事業の中の『点字クラブ』という月刊誌の編集責任者として働きました。

んそして昭和15(1940)年に豊島区雑司ヶ谷二丁目四二六番地の二階建ての小さな借家で「日本盲人図書館」を始められます。

(画像はWikipedia:本間一夫より)

図書館は、昭和16(1941)年には北海道の本家の援助を受けて現在の高田馬場に移ります。全国の視覚障がい者の方々から図書貸し出しを希望する点字の手紙がどんどん届き、点訳奉仕者(現在の点訳ボランティア)も増えていったそうです。樋口一葉の『にごりえ』『たけくらべ』、国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』などの一冊しかない手書きの点字写本が東西に貸し出され、書棚に残っていることはほとんどなかったそうです。

読者の応援で盲人図書館の講演会「日本盲人図書館敬助会」も発足します。図書館の運営は寄付金頼りの自転車操業だったそうです。

昭和16(1941)年12月8日、日本は太平洋戦争に突入します。いわゆる失明軍人が戦地から続々と送還されるようになり、図書館の利用申し込みが増加します。また失明軍人への応援から点訳奉仕運動が高まり、また寄付金から点字図書館が完成します。

また昭和18(1943)年6月21日には藤林喜代子さんと婚約されます。

ところが太平洋戦争の戦局が悪化し、東京空襲が迫る中で、貴重な点訳書を守るためにまず茨城へ、次いで北海道の増毛へ疎開されるのです。この当時は本間さん夫婦がリヤカーに大量の点字本を載せて毎日郵便局まで運ばれたそうです。そして昭和20(1945)年5月の東京大空襲によって図書館は全焼してしまいます。

失意の中でも増毛から点訳本集めや、日本全国への点字本の貸し出しを懸命に続けられます。

本田さんの人柄や熱意が広がり、また一人、また一人と点訳奉仕をされる人が増えていく過程。戦禍や終戦後の混乱の中でも点訳を続けられた方がいた。直接貸出しに当たった本間さんが、利用者の氏名や住所だけでなく読書傾向まで一人ひとり細かく記憶されていた。などのエピソードが印象に残りました。

 この茨城から増毛の疎開時代には、さまざまな思い出があります。私自身、直接貸出しあたり、図書を書棚に返したり、郵送袋のヒモをほどいたり結んだり、読書カードまで工夫して点字で克明に書き入れていましたから、この仕事の手応えを真正面から感じ取っていました。そういう意味では、その後の長い間もふくめて、この時代にまさる時期はなかったかも知れません。その頃の利用者についつは、氏名、住所だけでなく、読書傾向まで一人一人かなり細かく記憶していました。ここ十数年、私はよく地方へ講演に招かれて行くと、昔の読者がそこにいると「茨城からも北海道からも、よく本を借りました。読物の全然なかった時だけに、どんな楽しみだったか知れません」などと、お礼を言われます。そんな時は、特別にあの頃がなつかしく、「ああ、頑張ってやってよかった」と、しみじみ喜びをかみしめるのです。

I-4  点字図書館の創立より

そして敗戦後の混乱渦中にある日本の盲聾唖者に希望を与えるため、ヘレン・ケラーが来日する機会に合わせ、昭和23(1948)年3月に上京されます。このときに名称を「日本点字図書館」に改めます。9月にはNHK「私たちの言葉」で点訳奉仕を世に訴える本間さんの書いた一文が放送され、同日にヘレン・ケラーが神田共立講堂で講演されます。このことによって点訳奉仕の申し込みが続出したそうです。本間さんも岩橋武夫の紹介で個人的にヘレン・ケラーにお会いしました。

点字図書館を法人化し、多くの方から寄付金を集めましたが、戦後のインフレで点字用紙の値段が2倍3倍に跳ね上がり、紙屋への代金や職員の給与支払いも遅れるなも運営は非常に厳しく、本間さんも非常に苦悩されたそうです。

 私は深刻に反省し、深刻に悩みました。あの頃が、私の長い人生で最も苦しい、最も危険な、胸突き八丁でありました。後になって思うのですが、私がもし盲人でなかったら、恐らくあの時この事業を離れ、他の道に転向していたかも知れません。
 「勢いよく水面に浮かび上がるためには、一旦は水底まで沈み切らねばならない」とか、「伸びるものは縮む」とかいう言葉を聞きますが、まさに私はその渦中にいたのです。
……
  「そうだ、自分は自分の体験を通して、同じ運命を背負う後から来る者たちのためにらこの事業に使命を感じ、ここまでやって来たのではないか。これほど盲人に利用され、喜ばれている以上、これは価値ある事業なのだ。神のみこころに添う事業なのだ。たとえ世の人々には今かえりみられないかに見えても、神だけはよしと見た給い、すべてを知っていて下さるに違いない。そうであれば、道は必ず開けるはずだ」と、私はひたすら神に助けを求めて祈りました。

I-5 苦難の中の再建

そのような苦悩の中でも職員をはじめ周囲の方々のエピソードと感謝の気持ちが綴られているのが本間さんのお人柄なのでしょう。

そして昭和28(1953)年朝日新聞社の「朝日社会奉仕賞」を受賞し、また昭和29年には厚生省委託事業を受けることとなり、悩みの種であった図書館の建物が全額国の予算で建てられます。

ところで当時の点訳本は点訳奉仕活動としてボランティアの方々が一冊ずつ手打ちで点訳されていました。点訳に関する著作権の定めもなく、点訳許可のお願いを著作権者へ手紙で送っていたそうです。

現在は、著作権法では点字はもちろん、音声や点字データによる複製が著作権者の許諾なしに認められています。また2019年には読書バリアフリー法(視覚障害者等の読書環境の整備の推進に関する法律)が成立しています。視覚障がい者の権利が拡大してきたことは喜ばしいことですが、著作権者の方々と手紙でのやり取りをしていたエピソードにはちょっとほっこりしてしまいますね。

委託事業となったことで、点字出版も始まります。それまでは点訳奉仕者に頼り、手書き写本された一冊の本しかなく貸し出しに数ヶ月待ってもらうことが珍しくなかったそうです。

当時の点字出版は、点字を打ち出した亜鉛板2枚の間に点字用紙を挟み、回転しているゴム・ローラーの間を通すものでした。これにより大量に印刷することが可能になったのです。

(画像はSpotliteより)

まだ当時は点字プリンターはありませんでした。僕が盲学校に勤務した当時はパソコンを使った点訳が一般的でしたが、それまでは生徒のプリントや試験問題を点字用紙に1つずつ手打ちされていたとお聞きし、その大変さを想像したものです。

また点字図書館では本の貸し出しや返却を郵送で行っています。戦時中に本田さんがリヤカーで点字本を郵便局まで運んだ話がありましたが、それまでは図書館から運送屋に運んでもらっていましたが、大雨などで運送屋に断られることもあったそうです。それが新宿郵便局への懇請が通じ、赤い郵便車が玄関先まで来てくれるようになりました。

ちなみに点字本は重さ1キロまで1円切手で日本全国どこでも送れるようになっていました。それが点字図書館などからの訴えもあり、昭和36(1961)年の郵便料金改定で点字郵便は無条件で無料に、録音物は視覚障がい者施設から発受するものは無料となりました。


昭和30年代に入ると録音テープによる波がやってきます。点字図書館にはこの新事業に手をつける資金は厳しく、また職員の間に点字に熱心なあまり、テープ・ライブラリーに手を染めるのは邪道だという、かなり根強い抵抗もあったそうです。

ただ東京教育大学付属盲学校(現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)の寄宿舎生からなど、テープに対する読者の強い要望を見過ごすわけにはいかないと、「テープライブラリー」が誕生します。さらにテープ雑誌の発行も始まります。

録音図書はその後もカセットテープからCD、そしてデジタルデータへ移り変わります。規格も国際規格のデイジー(DAISY)に統一され、現在ではサピエ図書館のようにWeb上から録音データを自分のスマホにダウンロードすることもできます。


点字図書館や録音図書を通して読む、聞くだけでなく、盲人文化を高めようと昭和36(1961)年には「全国盲学校放送劇コンクール」と「点字読書感想文コンクール」が始まります。

盲学校での取り組みの件を読んでいて、過去に参加した地区盲学校での演劇音楽発表会の様子を思い出しました。



昭和39(1964)年の夏にニューヨークで開催される第3回世界盲人福祉会議に合わせて、講演会からの支援を受けた本間さんは、海外の点字図書や録音図書の視察・調査も含めてヨーロッパにも行き、世界一周の旅に出られます。

そこで本間さんは欧米の盲人福祉センターにある盲人用具の売店、視覚障がい者が日常使用する便利な器具がたくさん並べてあり、多くの視覚障がい者が訪れる場所に出会います。感銘を受けた本間さんは旅費を切り詰め、各都市で購入した腕時計や目覚まし時計などの各種時計、寒暖計・湿度計・メジャーなどの計量器、体温計・大工道具・パン切り器などの家庭用品、様々なゲーム、精密な凸地図などを日本へ送り、その展示会が開かれます。2日間の展示会に日本各地から500名もの人が集まったそうです。

言葉とは切り離せない点字やテープとは異なり、用具は欧米人が使用しても日本人が使用しても、その便利さには変わりありません。それだけに、あの日集った人たちの喜びは大きく、自分たちもぜひ欲しい、ぜひ使いたい、作れるものは作って欲しい、輸入できるものは輸入して欲しい、という強い要望が出てきたことは当然です。

I-7 盲人文化のささえより

そのことから、日本点字図書館の用具部が創立され、現在の日本点字図書館わくわく用具ショップに繋がります。

本には海外から送られる本間さんの手紙が掲載されています。本間さんの驚きや発見、そしてこれからの熱意が伝わってくる手紙です。

またこの展示会を機に、盲人用2スピードのカセット・テープレコーダーやテレビ・サウンドレシーバー(音だけのテレビ)、寒暖計や家庭秤などの軽量器、プラスチックを取り入れた点字器など、日本でも国産の視覚障がい用具の製作や販売が広がったそうです。

現在では各地の視覚障がい支援センターや福祉協議会などで、あるいは日本点字図書館わくわく用具ショップや日本ライトハウス情報文化センターのようにネット上で用具が販売されていますし、サイトワールドや日本ライトハウス展のような機器や用具の展示会も各地で開催されています。

そんな風に点字図書だけでなく、録音テープをはじめとする音声図書や文化事業、用具の展示や販売など本間さんの決断と行動の積み重ねが今の点字図書館の在り方、ひいては視覚障がいを取り巻く環境に繋がっているんだとひしひしと感じました。

本の中で本間さんはデジタルの導入についても述べられています。事実、パソコンによる点訳や点字プリンターの出現によって点字図書の作成の在り方は大きく変わりました。

今後は、何としてもエレクトロニクスをこの世界に導入し、新たな図書づくりの方法を実現させなければなりません。あらゆる世界にコンピューターが応用されている今日、ここだけが取り残されていて良いはずはないのです。

II-3 これからの日本点字図書館より

(画像はかえるショップより)

現在は、パソコンには画面読み上げや画面拡大、白黒反転などのソフトや機能がありますし、同様にスマートフォンにもiPhoneのVoiceOverやAndroidのTalkBackといった読み上げ機能や弱視向けの画面拡大、表示変更機能などが標準搭載されています。視覚障がい関連の用具もインターネット上で購入できます。

視覚障がいの方が当たり前にパソコンやスマホを使いこなす時代になっています。

全画面拡大
拡大鏡(マウスポインター周辺のみ拡大)

(画像はPanasonic CONNECTより)

白黒反転

(画像はCanonより)


今ある当たり前は当たり前ではなく、様々な人の積み重ねなのだと知る

僕は社会科教員です。盲学校時代に子どもたちに日本史や世界史を教えていたときには大きな事件だけでなく、その時代の背景や文化についてなるべくイメージできるように音声や模型を使っていました。

ただそんな風に教科書に載っている事柄だけが歴史ではありません。

以前に左近充孝之進さこんのじょうこうのしんという日本で初めて点字活版器をつくったり、視覚障がい者の学校をはじめたり、日本最初の点字新聞を始めたりした人を描いた『見はてぬ夢を(山本 優子)』という本を読んだときも思ったのですが、歴史とは教科書で学んだものだけではなくこんな人たちの想いの積み重ねでできているものなのでしょう。

どんなものにも想いが紡がれ、積み重なってきた歴史があるのです。当然のことですが、今現在、僕たちの身の周りにあるものは当たり前ではなく、そんな積み重ねの結果なのです。

そして点字図書館という歴史の積み重ねには、もちろん本間和夫さんという人の行動や熱意は必要だったのですが、それだけではなく、この本の中で本間さんが繰り返し書かれているように、後援者や職員をはじめ、記録には残らない名前の残らないたくさんの人たちの想いも不可欠だったのです。

この本の中には本田さんが出会い、縁を結び、助けられた方、応援された方、共に働いた方一人ひとりのお名前がたくさん記されていたのがとても印象に残りました。


まとめ

日本点字図書館の生みの親、本間一夫さんについての本の紹介でした。

過去の話ですが、現代の盲学校で働き、視覚障がいについての情報発信をしている身としては、読み進めながら本間さんの取り組みや紡いできた想いが今の視覚障がいを取り巻く世界に脈々と受け継がれているんだなぁと再確認しました。

高校時代の歴史の先生が語った「今君たちが学んでいる歴史はあくまでも歴史という本の目次のようなものです」という言葉が浮かんできます。

  • 身の回りの当たり前が当たり前でないこと

  • その背景には過去の歴史の積み重ねがあること

  • 個人だけでなく、名前の残らないたくさんの人に支えられてきたこと

そんなことを記事を読んでくれた方と共有したくて、本間さんの時代と現在の比較ができるような解説も入れながら紹介してみました。

日本点字図書館ホームページにある本間さんの紹介や本間さんの他の著作と併せて、よければ読んでみてください。




表紙の画像はAmazon.co.jpより引用した本の表紙です。