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嫌われ役ごめん

先日久しぶりに会社の飲み会があった。

隣になった30代の若き同僚と会社のエライ人について色々話す機会となった。若い人の感覚に興味深々で話を聞いた。

ウチの会社は年功序列、50代や60代となるとの会社のお偉いさんが占める、それはそれで大変そうだ。ポストが限られてくるから。まさにそこは上に登りつめた頂点。椅子取りゲームの最終決戦さながらである。

しかし、せっかく勝ち取った組織のトップに君臨するお偉いさんはなぜかみんなと対立することが多い。時にはあえて対立を生み出しているのではないか、と感じることもある。

そこで出てきたのが「嫌われ役」という言葉。正直なところ、私自身は上に立つものは嫌われるのも覚悟しておかねばならない、と思っている派だ。

だって必ずしも現場の意向と会社の意向が相容れないことは多々あるだろうし、そこを会社の意向で押し進めるのがまさにトップの仕事だから、だと思っている。

そんな時、その若き同僚がしみじみと、

「でも、あえて自分から嫌われ役を演じる必要ってないと思うんですよねー」

という言葉を発する。私はハッとした。

ああ、確かにこの「嫌われ役」と「嫌われる」は大きく違うなということに気づく。必然と偶然ではないか、と。

良く聞く言葉、嫌われ役。なかでも組織の上に立つ年配層からちょくちょく聞くことがあるイメージがある、確かに。

私は嫌われ役だから厳しくしなければならない、などなど。

その同僚曰く、こういった嫌われ役がパワハラの要因にもなりかねない、とも感じるというのはあるのかもしれない。自分は嫌われ役だからあえて厳しい指導をする。でも、それを受け取る側はそれが役なのか素なのか関係なく嫌な気持ちになる、時にはトラウマとして残ってしまう。

そう思いを巡っていったのち、もしかしたら、嫌われ役はお役御免、もう必要のない役割なのかもしれない、との思いに至る。

ここで明確にしておきたいのは、あえてという部分。話し合う結果嫌われるというのはそ相手次第なので自分にはコントロール出来ない。これは偶発的なものなので起こってしまう時は起こる。なるべく少ない方がいいとは思う。

でも、よかれと思って自分から嫌われる(厳しくする)とか、その人のために自分から嫌われる(厳しくする)、というのはもう必要ないのではないか、という自分でコントロールができるケースのこと、というのをちゃんと補足しておきたい。

歳をとると組織の上の立場で振る舞うことがやってくる。親になるのもまさにそう。そんな時にこの「嫌われ役・不要」という考え方を取り入れて見直すと、なんだか肩の荷が降りた、というか、もっと自然体でいいんだ、と自分の中の一つの殻がバラバラっとこわれる感覚みたいな、そんな感じで心持ちが軽くなった。

実ほど頭を垂れる稲穂かな

10代20代のころ、この言葉の意味が全く理解できなかった。もしかしたらその背景には、自分の周りでそんな大人に出会うことが少なかったから、というのもあるかもしれないとも振り返る。自分が歳をとり周りに自分より若い人が増えて親になって会社でも階層が上がる中で、「自分はどうか?」と自問はしているが、それでもまだわかっていなかった。

今回、ふと飲み会の席で出会った「嫌われ役・不要説」により、ああこういうことかな、と腹落ちする感覚を得られたような気がする。それでもなかなか固定観念なしに振る舞うというのはそう簡単にはいかないんだろう。これから先も自問自答が続きそうではあるものの、肩の力は少し抜いた方が良さそうだ。

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