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早期教育の罠〜加熱する英語教育に飲まれないために〜

昨今はグローバル化が叫ばれ、幼少期から英語を熱心に学ばせる親も多いようだ。しかしアプローチを間違えるとのちに大きな禍根を残すことも少なくないと指摘されている。今回はそのテーマについて論じてみようと思う。英語スクールに通わせようか悩んでいる方に読んでもらえたら幸いだ。


早期教育のギモン

最近は英語を使った保育を行うプリスクール(未就学)に通わせるケースがあるらしい。まだ母語すらもまともに確立されていないタイミングだ。その中で学ぶ意義はどこにあるのか。

確かに幼少期から一貫してインターナショナルスクールに通わせ、バイリンガルとして注目を浴びるような人は一定数いる。しかし彼らを見て思うのは、それはホントにひと握りの存在でしかない。また将来的に海外に住むことも検討している前提で通わせている。言葉は悪いが、不安ビジネスの餌食になるような家庭のこどもでは、やる意味も見出せないだろうし、あまり効果的とは言えない。もちろんこどもが意欲を見せれば別なのだが。

バイリンガルは時として中途半端になる

バイリンガルを専門的に研究されている医者の方が言うには、帰国子女は理想的で羨ましがられる一方で、苦痛を感じることも少なくないらしい。要するに母語が確立されず、どっちつかずの状態で大人になってしまうことで、うまく意見を出せなかったり、コミュニケーションに不便を感じる。学校で周りが英語が話せない中で自分だけが発音よく話せることは、その場においては肯定感は高まるだろうが、残りの長い人生において禍根を残すことにもなりうる。以下の本は参考文献。この本の中の一部でこのテーマに触れている。


でもやっぱり年齢は重要なんじゃ、、、?

ちなみに脳科学の分野では、臨界期という言葉がある。これはこどもが何歳までに学習を開始すれば円滑な言語獲得ができるのかを示すものだ。ただしこれにはさまざまな意見がある。6歳、10歳、12歳など多岐にわたり、いまだに論争の渦中にあるだろう。ただ正直この議論はあまり生産性がないのではないかというのが僕の意見だ。確かにネイティブレベルの発音を極限まで求めるなら、これらの年齢期に始めた方がいい。大人になってからそのレベルに到達しようにもできない人が大半だろう。でもそこで諦めることはもちろんない。英語に限らず、どの言語だってあくまでもコミュニケーションのツールでしかない。伝わればそれで良い。この観点なら急いで学ぶ必要性はないと感じる。中学生、高校生、大学生、もっと言うと大人になってからでも習得可能だ。それがたとえ何歳からだったとしても。

では、どのように学習を効果的に行なっていくか。先に断りをすると、単語や文法、フレーズをとにかく覚えようとか、聞き流しでやっていこうといったものではない。それらはすでに単体で行なっても効果が薄いことや、そもそも効果が望めないことが証明されている。言葉の習得はもっと本質的なところに踏み込んでいく必要がある。

習得の鍵を握る2つの要素

上記の2つの記事でも少し触れたのだが、僕は認知科学や心理学の観点から言語習得について考えている。これらはいずれも人間の心の働きに焦点をおいて第二言語の習得を試みる。そして関連性や精神状態、個々人の考え方や価値観とうまくリンクさせながら学習を行っていくという、あまりメジャーな考えではないように思われるかもしれないが、最も再現性の高い方法ではないかと個人的には捉えている。絶対的なやり方を授けるのではなく、自分にあった形で最適な学習が遂行できるからだ。

まず1つ目の要素として、自分にとって関連性の高いものを中心に学習を行なっていくというもの。たとえば、あらかじめ英語を使う先がインテリアの商談の場ならその分野に特化した形で行う、サッカーが好きでサッカーに関するコンテンツだけに絞ってやっていく、好きな人にお近づきになりたいからその人のことならなんでも言語化できるようにするなどだ。

以下の動画の中では言語習得に関する5つの原則と7つの行動を挙げられている。その中の1つ目の原則では、自分にとって関連性や親和性が高いコンテンツに焦点を当てることを強調している。

タイピングを全く習得できなかった女性が緊急性の高い仕事を任された際、自分にとっての関連性を強く感じて結果できるようになった例が話されている。それは彼女にとってとても意義深く、価値を生み出す源泉になったのだ。

そして2つ目は、その言語の背景にある文化的、社会的背景や慣習、共通認識を意識しようというもの。言葉はあくまでもコミュニケーションのツールに過ぎず、それ自体にあまり価値はない。これは状況意味論という言葉で説明されることもあるが、要するに状況があって初めて意味が成立するということだ。たとえばあなたの名前を誰かが呼んだとする。それはトイレに長く入っているあなたを気遣ってのことかもしれない。あるいは料理をしている母親を手伝うという意味にもなりうる。しばらく旅に出るあなたに寂しい思いを伝えたいとか。このように文脈次第で意味はいくらでも生まれる。辞書通りの使い方さえ覚えていればいいというそう単純なものではないが、だからといって難しい訳でもない。ルールに縛られ過ぎず、要はコミュニケーションを楽しもうという訳だ。その言語の背景にある文化を理解しようとする気概を持つのはとても大事である。単語や文法を単体で学ぶこと自体は、学者の領域であり、我々一般の言語学習者がやるべきことではない。(もちろん意味を成立させるためにも最低限の文法知識は必要だが、日本における文法学習や単語暗記の熱は異常だと思う。中学レベルの知識が6〜8割程度あれば十分ではないか。)

以下の本では、こういったことに特化して触れているもので、僕自身もかなり感銘を受けた。

まとめると、何のために英語を学ぶのか、使う先はどこなのかを明確にした上で、あくまでもツールとしてのコミュニケーションを身につけることを心がける。完全合理的な言語は存在しない。相手を理解しようとする力や共感を生むような言語化を心がけるなど、本質はそこにある。英語ビジネスという巨大でありながらも不安を煽動しているものに囚われないように気をつけなければならない。具体的なやり方はまた別記事で触れていく。自分が今実際にやっていることも踏まえてお伝えできたらと思う。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。記事に対するコメントお待ちしております。






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