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無為自然の境地に至るために

 無為自然とは、作為を離れた状態のことである。老荘思想では、自然は人間の作為を離れて、自ずと調和を保っていると説かれる。この自然のあり方を「無為自然」と呼び、それが人間の理想的なあり方であると考えられている。

 無為自然の境地に至るためには、作為を捨てることが必要である。作為とは、自分の欲望やこだわり、物事をコントロールしようとする意志などによって生じるものだ。作為を捨てるためには、自分の内面と向き合い、自分の弱さや欠点を受け入れる必要がある。また、自然の摂理を理解し、自然の流れに身を任せることも大切である。

 社会生活をしていると、作為を捨てることは難しい。社会にはさまざまなルールや常識があり、それらを守るためには、作為をしなければならない場面も多い。また、仕事や人間関係などの雑事に追われ、作為から抜け出す余裕がなくなることもある。
そのため、無為自然の境地に至るには、社会から離れて、自然の中で暮らすことが有効であると考えられる。山にこもって仙人のように暮らすことで、雑事から解放され、作為を捨てることができるようになるだろう。
また、山にこもる前には、多くの学びをして情報過多になる可能性がある。情報過多になると、考えがまとまりにくくなり、作為に囚われやすくなる。そのため、山にこもる前に、一度すべての知識を捨てることで、新たな考えが浮かんでくる可能性がある。

 無為自然の境地は、簡単に到達できるものではない。しかし、上記のような方法を実践することで、少しずつ近づいていけるだろう。無為自然の境地に至ることで、私たちは、より自然に調和した生き方ができるようになる。また、苦しみから解放され、幸福な人生を送ることができるようになるかもしれない。

道 48章
學を爲(な)せば日々に益(ま)し、道を爲せば日々に損(そん)す。 これを損し又(ま)た損し、以(も)って無爲(むい)に至る。 無爲にして爲さざる無し。 天下を取るは常に無事を以ってす。 其の有事に及びては、以って天下を取るに足らず。

老子 金谷治

無為自然と仏教の悟りは、ともに「作為を離れて自然のままであること」を意味する言葉です。しかし、その意味するところは、それぞれに微妙な違いがあります。
老荘思想における無為自然
老荘思想における無為自然は、自然界のあり方を模範とした理想的な政治や社会のあり方を示す言葉です。老子は、人間の作為によって自然の秩序を乱してはならないと考え、無為自然の境地を理想としました。荘子は、さらに一歩進んで、人間の存在そのものが自然の一部であり、作為を離れて自然のままに生きることが、真の幸福につながると説きました。
仏教における悟り
仏教における悟りは、諸行無常、諸法空相の真理を悟り、煩悩から解脱した境地を意味します。悟りを得た者は、一切の執着を捨て去り、自然のままに生きることができるようになります。
無為自然と仏教の悟りの共通点と相違点
無為自然と仏教の悟りは、ともに「作為を離れて自然のままであること」を意味する点で共通しています。しかし、その意味するところは、以下の点で相違があります。
• 対象
無為自然は、自然界や社会を対象としています。一方、仏教の悟りは、人間の心や存在を対象としています。
• 方法
無為自然は、作為を離れることで自然の秩序に従うことを意味します。一方、仏教の悟りは、修行によって煩悩を滅し、真理を悟ることを意味します。
• 結果
無為自然は、自然の秩序に従うことで、自然と調和した生き方を意味します。一方、仏教の悟りは、煩悩から解脱し、苦しみから自由になった生き方を意味します。
まとめ
無為自然と仏教の悟りは、ともに「作為を離れて自然のままであること」を意味する言葉であり、その点で共通しています。しかし、対象、方法、結果においては、それぞれに微妙な違いがあります。

Bard

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