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share :【身体の使い方を 完全にシフトさせる】

こんにちは、みなさま。

今日は
お二人の方からの
メッセージ、という光を
共有させていただきます。:)


お一人は、
こちらのnoteを読まれたAさん。
内観が深まったことを
メッセージくださいました。

https://note.com/megumi_miyamoto/n/n32a07f509b51

『わたしは、神の愛に守られてある、支えられてある』

その祈りに戻る
Aさんの日々。

わたしから 感じてきたAさんの光は、
多種多様です。


自宅から最寄り駅までの30−40分の
徒歩通学の中
Aさんは
その全てを「祈りの時間」に
したと教えてくれました。

素敵な道のりです。
そして、動く瞑想、動きながらの
祈りの実践も
「こうするんです!」と
わたしにも
教えて見せてくれました。

Aさんは 
「お母様」や「お父様」とは
真逆を生きなくては
(こんな風には生きたくない)と
どこかで「お父様、お母様」に対する
「思い込み」を
ご自身が
作り出していたと気づかれたそうです。

「思い込み」とは
自我の見方ともいえます。

与えられてある
「聖なる見方、神聖な思い」を
怖がるからこそ
「思い込む」ことで
心を「不安」で
いっぱいにします。

この「思い込み」に
気がついて 本当の
お父様、お母様の
くださっている「贈り物」を
受け取りたい、神の子として
生きることを、許したい、と
祈りが深まったことを
伝えてくださいました。


Aさん、また続きの
メッセージがあるとのことでしたが
いつも 聖なるタイミングで
お送りくださるので
私も引き続き、祈りながら
待ちます。:)




わたしたちが
一度も実践したことが
ないこと。

それは、
相手が身体の中にいる存在だ、
という 見方を
完全に忘れる
ということ。

言い換えるなら
あらゆる状況におかれる
この身体を
自分の都合の良いように
(私が安心できるように)
かえてほしい、と
神頼みするかわりに

全べてという
愛のために
どの想いも照らしてほしい、
奇跡につかってほしい、
とささげること。

相手も自分も
この「枠」の中にとどまる
ちっぽけな、欠けている存在と
押し留める代わりに。

「わたし」という
身体を
癒しの道具に。


さらに、メッセージを
くださった、もうひとりの方。

お父様が入院されていた時に
お話を聞かせてくださったTさん。

なんと、今日、お誕生日でした。
そんな素敵なお誕生日のお祝い、
その光の贈り物を届けてくださいました。


以前、Tさんは、ご自身のせいで
「両親の仲が悪いのだ」と、思ってきたことを
お話くださっていました。

ですが、Tさん含めて、
お母様も、お父様も
ヒーリングの中で
見せてくださる光景や
私に届けてくださるメッセージは
「なぜ、わたしがここにいるのか」を
理屈や、言葉を超えて
深々と感じさせてくださっていました。

「幻想から、抜け出し続けます」

「細胞1つ1つから 紐解かれてあります」

神のメッセージを
Tさんは
届けてくださいました。

Tさんからのシェア。
こちらも、読むことを通って
言葉の奥にある、癒しの光を
受け取れました。

人生の区切り、「個人の私」を奇跡に
捧げてくださっているのが
伝わってきます。


「わたし」という
個人を握りしめずに
安心の中で
喜びを 生きていっていい、
Tさんが みせてくださる光景や体験に
心から感謝です。


今日も、お二人のメッセージという
光を 読むことを通して
共に受け取ってくださり
ありがとうございます。


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