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当事者性に潜む、暴力性から抜け出す

人に厳しすぎることを、いつも反省している。

ある日、はたと気づいたこと。それは、子どもの支援に携わる人に対して、特に厳しいまなざしを向けてしまうことだ。

どんな組織に所属している人も、みんなそれぞれに想いを持つ優しい人たちばかりだと思う。

それなのに、特別厳しいまなざしを向けてしまうのは、「同志」としてではなく、「当事者」としてのまなざしで見つめているからかもしれないと気づいた。


支援を受けることへの申し訳なさ

中学生の頃、「自分は優先順位が低い子だ」と思っていた。

親が亡くなったり、食事を与えられなかったり、声が出なくなったり。自分なりの小さな葛藤はあった。

でも、「不登校」「非行少年」そんな目に見える変化がある子たちに時間をかけるべきだ、と子どもながらに思っていたのだ。私は、まだ耐えられる。だから、譲ろうと思った。

こんなことを言うと、「当事者じゃないのに何を言うんだ」って思われるかもしれない。

学校の先生に手を差し伸べられるのが嫌だった人もいるかもしれないし、助けなんて必要ないと思っていた人もいるかもしれない。

わたしが、そんな想像力を働かせられなかった理由は、学校以外の居場所を知らなかったからだ。

学校に行かなくなったら、レールから外れて、真っ暗闇に落ちてしまうんじゃないか。そんな得体の知れない不安があった。

そして、それを誰に共有していいのか分からなかった。親は人として、破綻していた。自分の力だけで生きなければいけない未来がすぐ側にあった。

学校は楽しくなかったけど、行かない選択肢が思いつかなかった。とにかく、学校にしがみつくしかなかった。

だからこそ、「学校に行かない選択」をした人は、身を切るような思いをしているかもしれない、そんなふうに思っていた。

自分の優先順位を下げれば下げるほど、「自分のことを誰も見ていない」と思うようになった。それは、悔しくて、苦しくて、歯がゆくて、悲しい。でも、その気持ちを表す言葉が出てこない。

そんなある日、福祉とつながって保護された。皮肉にも、そこで初めて、自分のことを肯定した。自分は、助けてもらってもいい存在だったんだ、と。


自分とは違う選択肢で救われる人もいる

大人になってから、いろいろな人に会った。

学習支援で子どもを支える人、教師として子どもを支える人。話を聞けば聞くほど、それぞれのやり方で子どもと真摯に向き合っていることに気付かされた。彼らに救われる人がいるんだろうな、と自然に思うことができた。

自分が助けてもらえなかった選択肢で、救われる人もいる。選択肢は、多ければ多いほど、きっといい。

大人になってから、そう気づいた。それなのに、うまく、折り合いをつけられない自分もいる。

「誰にも見つけてもらえない人を、本当に助けてくれる人なのだろうか?」

気づいたら、支援に携わる人をそんな価値基準でジャッジしていたのかもしれない。その一方で、フラットな眼差しで見つめられる人になりたいと思う自分もいる。両者の中で、ずっと揺れている。

いろいろな組織・個人が、それぞれの角度から、子どもたちを支える。そうすることで、支援と支援の隙間が埋められ、細かい網の目ができる。網の目が細かくなればなるほど、こぼれ落ちてしまう人を減らせるかもしれない。


自分を見捨てた選択肢も肯定する

葛藤の中で揺れる自分のために、宣言しようと思う。自分を救ってくれなかった選択肢も肯定しよう、と。

まずは、自分の厳しいまなざしに自覚的になること。自覚したら、その理由を探ること。それが、今の自分に必要なことだと思う。

同じようについ批判的なまなざしで見てしまう人がいるならば、どうか少し立ち止まってほしい。「その選択肢に救われる誰かもいるんじゃない?」と。

選択肢を見つけられずに取り残されたわたしたちが、自ら選択肢を潰すのはやめよう。

哀しみへの執着を手放せますように。

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