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「努力」という病

「依存症に陥る人は自立心が強い」

そう語るのは、脳性まひの小児科医・熊谷晋一郎氏。

現代ビジネスの「人が「病む」のは、属している組織が「病んでいる」から」」という記事の中での一場面だ。

記事の中では、こうも語っている。

「小さい頃、ネグレクトだとか、虐待的な環境で育っていて、人に依存してはいけないということを両親との関係から学習した人たちこそ、過剰な能力主義っていうんですか、自分で能力を高めて、ひとに依存せずに生きていけるようにならねばという、思考に陥りやすい。」

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記事を読みながら、自分の人生を振り返った。

物心ついた頃には親と離れて暮らしていたこと、中学生で親元に戻ったものの養育放棄されていたこと。

そんなこともあってか、子どもの頃から「ひとりで、生きていくのだ」という意識が強かったように思う。

「実力をつけて、強くなる」「社会に必要とされる人になる」と、頭の中で毎日呪文を唱える子どもだった。


時間の無駄が、何より怖い

生きていくために、闘う。

そんな私の一番の敵は、「時間を無駄にすること」だった。

何をもって「無駄」というのか、そんなことは子どもの私には分からなかった。ただひたすらに、時間を有効に使えているか、不安だった。

休日に眠りすぎてしまった時。何をやっていたんだ、と激しい後悔の念にかられる。

なかなか思うように勉強が進まなかった時、罪悪感にかられて、息が苦しくなる。

すぐに自分が無駄にした時間を計算する。「◯時間無駄にしてしまった……今から、絶対に取り戻す」と、血眼になる。

あの頃、どんな顔をして生きていたのだろう、と思う。


「頑張ること」への依存

時間を無駄にすることへの恐怖。それは、自分の未来への不安、ひいては自分の存在意義への不安から生まれていた。

時間の浪費を恐れては、とにかくがむしゃらに頑張る。

何かの目的を達成するために、努力していたのではない。

「頑張ること」に依存していたのだ。

頑張ると周りから、賞賛される。

それに甘えて、不安の根本を解決するのではなく、頑張ることでごまかしていた。


生存戦略としての、努力

当時の自分にとって、頑張ることは生存戦略だった。生き抜くために、必要だった。おとなになった今となっては、そう思う。

何かに向かって努力することで、自分を保っていた。

子どもの自分に何か伝えるとするならば、こう言うだろう。

頑張らないと生きていけないわけじゃない。努力以外の生存戦略だってある。あくまでも、今は「努力」を生存戦略として選んでいるだけだ、と。

おとなになって、それを頭の片隅に置けるようになってから、肩の力を抜くのが少しだけうまくなったように思う。

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