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第22週 水曜日 教育者 横井玉子

22週目の教育者は女子美術大学創立者の横井玉子さんです。

横井 玉子(よこい たまこ)さんは、1855年10月22日肥後熊本藩支藩の肥後新田藩家老、原尹胤氏の次女として江戸鉄砲州に生まれます。

原家は1868年主君に従って高瀬(現在の熊本県玉名市)へ移住します。
玉子さんは17歳の1872年にアメリカ留学から戻っていた横井小楠氏の甥で養子となった横井左平太(時治)氏と結婚します。
 左平太氏は横井小楠氏の兄・時明氏の長男で、1866年に弟の太平氏とともに渡米し、アナポリスの兵学校に学ばれました。

左平太氏はアメリカではジョン・フェリス博士の世話になった最初の留学生であった。

フェリス博士親子は日本人留学生の世話をよくしたことから父のように慕われたそうです。現在のフェリス女学院の「フェリス」は、フェリス博士に対する敬意を籠めて名づけられたのであったそうです。


玉子さんは熊本では横井家の親族と同居し、横井時雄氏、みや兄妹、徳富初子さんらと共に洋学校に通い、ジェーンズ夫妻から英語と洋裁、西洋料理を学ばれます。

1875年に左平太氏が帰国し、元老院権少書記官となられます。

しかし結核を患い、上京した玉子さんの看病のかいなく死去されます。21歳で玉子さんは寡婦となられました。しかも、実際に生活した月日は僅かであったそうです。

玉子は東京に滞在し、1879年東京葺手町教会のワデル牧師により受洗する。

玉子さんは笠原家の高等女礼式を学び、また吉島滝音氏から筝曲の免許を得られます。

1885年海岸女学校の教員となり、同年矢嶋楫子さんの依頼で新栄女学校事務監督となって礼式と裁縫を教授されます。

さらに1886年東京師範学校で高等裁縫と高等女礼式の教授資格を取り、本多錦吉郎氏と浅井忠氏に水彩画と油絵を学ばれます。この頃古流茶道、華道も修められています。

1890年に学校合併した女子学院で寄宿舎監督となり、礼式、裁縫、洋画、料理を教授されます。

1893年12月2日の東京夫人矯風会年会において「賤業婦救済方法の研究」委員として選出されています。


1899年に洋画団体の白馬会に入会されています。


1901年、藤田文蔵氏、田中晋氏、谷口鉄太郎らと女子美術学校 (後の女子美術大学) を創立されます。そして舎監兼幹事となった。
 11月28日、東京日日新聞が「第一回の展覧会成功」と、女子美術学校の<女子美術協会>として開催した展覧会の評判の高かったことを報じています。また1902年3月28日の時事新聞には「開校間もなく教室狭隘に、近く増築」とニュースになったそうです。

開学早々に資金面から経営難に陥り、順天堂院長夫人佐藤志津さんに協力を要請し、玉子の情熱に感銘した志津さんは全面的支援を約束されます。


女子美術学校を創立するときから玉子さんは、すでにわが身の長くないことを悟って、全身全霊をもって学校経営に全力を傾注されました。

1903年1月4日日胃癌により入院先の順天堂医院で死去されました。

黒田清輝氏が日記に「今夜横井玉子女史ノ訃ニ接ス」と記しておられるそうです。

1996年に玉子さんは熊本県の近代文化功労者としてリストに掲載されました。

 
 また2002年11月14日には女子美術学校100周年を記念して横井小楠の曾孫に当たる横井和子がピアノ・リサイタルを開かれたそうです。

玉子さんの生涯はウィキペディア以外にもこのページに詳しく書かれています。


めぐめぐがすごいと思う横井玉子さんのこと

1小さい頃から絵が得意だったというのではなく、大人になってから

絵画を学ばれていること。

2そして全生涯をかけて新しい学校のためにすべてをかけられていること

3そして本当に様々な女性としての習い事をなさっていること。


 


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