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第17週 金曜日 芸術家 山本 容子

第17週目の芸術家は 銅板画家の山本容子さんです

山本 容子(やまもと ようこ)さんは1952年4月7日 福喜鮨創業者山本喜五郎氏の孫として埼玉県浦和市(現・さいたま市)の浦和市立病院(現・さいたま市立病院)でお生まれになりました。

このため、公式プロフィール上浦和市出身となっているそうです、お

父さんは旧制武蔵高等学校尋常科から大阪府立高津中学校を経て、旧制第三高等学校受験に二度失敗し、大阪理工科大学(現在の近畿大学理工学部)入学。同校卒業後、容子さんの出生当時は埼玉の鉄工所に勤務していたが、後に奈良県生駒市で山本旅館の経営を引き継いだそうです。経営難で旅館を手放してからは自らの研究所を設立し、公害処理など化学関係の研究をおこなわれたそうです。

このため、容子さんは生後50日で山本旅館に移り住まれます。
1955年 8月、大阪府堺市大浜中町に転居されます、
1959年 4月、堺市立英彰小学校に入学されます。
1961年 冬、お父さんの研究所の倒産により一家が破産して東京都練馬区に夜逃げし、練馬区立田柄小学校に転校されます
1963年 春、大阪府門真市に転居し門真市立大和田小学校に転校されます
1964年 お父さんが愛人を作って家から出たため、お母さんがお好み焼き屋を始めて家計を支えることになります。
1965年 4月、聖母女学院中学校に入学されます
1966年 カトリックの洗礼を受け、洗礼名ベルナデッタを授かられます

1969年 このころ、天王寺公園で前衛劇団「日本維新派」の芝居を観劇し、強烈な印象を受けられます。このとき「こういう演劇に興味があるんなら、京都芸大のアトリエ座に行けばいいよ」と聞いたことがきっかけで京都市立芸術大学を志望するに至ったそうです。
1972年 4月、関西美術院とリベラ美術研究所での1年間の浪人生活を経て京都市立芸術大学美術学部西洋画科に入学されます。
1974年 このころ、先輩の木村秀樹氏に「あなたのことが好きです」と告白して「僕も君が嫌いではない。でも、みんなで一緒にいる方が楽しいし、何より、作品を創っているのが一番楽しい」と断られたことがあるそうです。
1975年 5月、第27回京展紫賞を受賞されます。6月、京都のアート・コアギャラリーにて初めての個展を開かれます。
1976年 6月、第1回アート・コア賞を受賞されます
1977年 7月、第2回京都洋画版画美術展で新人賞を受賞されます。また10月、第2回現代版画コンクール展でコンクール賞を受賞されます。
1978年 1月、大学院の先輩にあたる4歳上の版画家の田中孝氏と結婚され京都の公団南大島団地に住まれます。3月、京都市立芸術大学美術学部西洋画専攻科修了されます。田中と共に京都市立芸術大学の非常勤講師をつとめることになられます。9月、第2回日本現代版画大賞展で西武賞を受賞されます。このころ田中氏の子を妊娠したが、田中氏の「自分たちの面倒もみきれないほどの貧乏暮らしなのに、子供なんてとんでもない」との一言で中絶を余儀なくされました。
1980年 3月、京都市芸術新人賞を受賞をされます。10月、エイボン女性年度賞芸術賞を受賞。この年、木村秀樹氏の紹介で大津市比叡平に転居されます。
1981年 このころ、容子さんの作品に注目して東京から訪ねて来た画廊主が田中氏に向かって"うちの画廊にとってあなたは取り扱い作家として興味がない"という旨を宣告したのため、田中との夫婦関係が冷却し、家庭内別居が始まったそうです。
1982年 7月、田中氏と離婚されます。
1983年 第4回韓国国際版画ビエンナーレで優秀賞を受賞されます。
1984年 7月から、妻子ある21歳上の美術評論家中原佑介氏と東京渋谷区代々木のアパートで同棲を始められます。このため中原の妻が代々木のアパートに押しかけ、大声で叫びながらドアを叩く、画廊の前で待ち伏せする、牛乳入れにマッチを投げ入れる、執拗に電話をかけ続けるなどの嫌がらせをおこなうということになります。西参道を歩いていた容子に中原夫人が駆け寄って「今からこの人に突き飛ばされた、と言ってから、車に轢かれます」と叫んだこともあった。このときは容子が交番に駆け込み、警官に状況を説明してから「わたしは決してあの人を突き飛ばしたりしないから、証言を取って置いて下さい」と言ったことがあったそうです。
1985年 5月、東京港区南青山の秋山庄太郎氏の家作に転居。
1986年 8月、神奈川県鎌倉市に転居されます。

『マリ・クレール』1988年4月号~1989年3月号に連載された吉本ばななの小説『TUGUMI』の挿画を手がけ、単行本(1989年3月刊行)の表紙絵も担当されます。版画家としてはすでに一家をなしていたが、同書が1989年年間ベストセラーの総合1位を記録し[1]、累計167万部ものベストセラーとなったことから山本さんの名前も広く知られるようになりました。

それ以降、多数の書籍の装丁や挿画、アクセサリー、食器、舞台衣装のデザインなどの幅広い分野の作品を発表しておられます。

また、美術以外の分野でも、旅行、音楽などについての挿画を交えたエッセイを多数出版しておられます。



1992年 『Lの贈り物』で第23回講談社出版文化賞ブックデザイン賞を受賞されます。
1996年 テレビ番組の富士通スペシャル『世界遺産──時を超える旅』の収録で知り合った2歳下のテレビディレクター氏家力氏(嵐山光三郎氏の元用心棒)と嵐山氏の仲人で結婚されています。

1999年のネスカフェ・ゴールドブレンドのCM出演に出演されています。


2004年 5月、氏家氏と離婚されています。


2005年のベストジーニストを受賞されています。


特に近年は「ホスピタル・アート」に取り組んで医療現場の壁画を制作するなど、幅広い分野で活躍しておられます。



現在は湘南で個展が行われています。

作品は、柔らかく繊細な描線と独特の色使いが特徴で、都会的で洗練された雰囲気を持っています。






概要
作品は、柔らかく繊細な描線と独特の色使いが特徴で、都会的で洗練された雰囲気を持つ。



主要な著作

山本容子のジャズ絵本 Jazzing(2006年10月4日、講談社、ISBN 978-4062135924 )









山本容子さんのHPを訪れるとあっという間にその世界に入れます。


めぐめぐがすごいと思う山本容子さんのこと

1芸術家として学生のころから素晴らしい才能を発揮されていること。

2愛に生きて、そのためいろいろな苦労をされていること。

3そして現在本当に様々なジャンルで活躍されて、様々な分野で活躍されていること。



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