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寂しがりやは克服しなくてはいけないのか?

結論。
克服しなくてもよい・・・んじゃないんだろうか、と私は思っている。


いや、
最近までは克服しなくてはならないと思っていた。
寂しがりやな私は、寂しいと感じると音楽を聴いたり、ネットの世界に身を置いたり、youtubeを見たり人の多い街中で過ごしたり・・・とにかく「独りである」「孤独である」という事を自分に感じさせないようにありとあらゆる手段を用いて過ごしていた。
いや、今もそう過ごしている。
そしてそんな自分に対して、

『そんなことをしていては一人前の大人になれません!!』

『音のない世界だろうが、孤独を感じていようがそれを我満し耐え抜きなさい!!』

と強く檄を飛ばしていた。

でも、最近ふと思った。
本当にこれは耐える必要のあることなのだろうか・・・?

動画や音楽でその寂しさと共存し、気持ちよく生きられるのならばそこを弱点としてとらえなくてもいいのではないだろうか?

解釈によっては音楽を聴き動画を見て自分は独りぼっちではない、と自分自身を元気づけているということにならないだろうか?


この答えにたどり着いてからは、寂しさを感じた時に音楽や動画を聴きながら作業することを自分に許した。
家事も勉強も。
寂しいと感じながらするよりは「独りぼっちじゃない」と感じていた方が不安や緊張がとれてやりやすいと感じたから。


ちなみに余談になるけれど、今回のテーマになっている「寂しさ」についておまけで気づいたことがあった。
私が感じていたのは寂しさではなく「心細さ」。
どう違うのか、といわれると言葉での表現は難しい。
けれど、口にしてみると「寂しい」と「心細い」では歴然とした差がある。
さあ、声にだしてみよう。
「私は寂しい」
「私は心細い」

どちらがしっくりきましたか?


そのようなわけで、今日も私は音楽や動画や人が多くいる場所のお世話になっている。
「心細い」という気持ちを支えるために。

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