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#映画感想文315『インフィニティ・プール』(2023)

映画『インフィニティ・プール(原題:Infinity Pool)』(2023)を映画館で観てきた。

監督・脚本はブランドン・クローネンバーグ、出演はアレクサンダー・スカルスガルド、ミア・ゴス、クレオパトラ・コールマン。

2023年製作、118分、カナダ・クロアチア・ハンガリー合作。

ジェームズ・フォースター(アレクサンダー・スカルスガルド)は作家だが、六年前の一作目を出版しただけで、二作目を書けずにいる。妻のエムは出版社の社長令嬢であり、彼は妻の資産を頼りに生活している。

白人専用のような高級リゾートホテルに彼らは泊っているのだが、ジェームズとエムの関係はうまくいっていない。朝の寝起きにジェームズが誘っても、エムは朝食のビュッフェでオムレツを逃したくないからという理由で断る。それに素直に納得してしまうところが、ジェームズの立場の弱さを物語る。彼は去勢された男なのだろうか。

朝食のときの夫婦の会話もぎこちない。エムは目当てのオムレツを食べ残して、ビーチの散歩に行ってしまう。ジェームズが一人で歩いていると、ガビ・バウアー(ミア・ゴス)に話しかけられる。彼女は、あなたの作品のファンだと言い、一緒にディナーに行かないかと誘う。売れない作家、書けない作家であるジェームズは舞い上がる。その夫婦と四人で夕飯を供にし、翌日はホテルの敷地を出て遊ぶことに同意する。

美しい自然の中、海辺でのピクニックを楽しんでいた。ジェームズが用を足していると、後ろからガビに襲われる。それは性暴力なのだが、ジェームズは抵抗することができず、拒絶の意志表明すらしない。彼女とのセックスを期待していたのだとしても、不意打ちで無理やりプライベートゾーンを触られたのに、彼は怒りすら見せない。この従順さがジェームズの危うさであり、大きな違和感を与える。

その帰り道、ガビの夫であるアルバンはひどく酔っており運転できないという。仕方がなく、ジェームズが運転するのだが、車の照明が故障して前方がまったく見えなくなり、地元住民を轢き殺してしまう。事故だから警察に行こうとジェームズとエムは主張するも、ガビに「この国は文明的ではないから死刑になる。逃げるしかない」と言われ、二人は従う。しかし、翌朝、ジェームズの部屋には警察がやって来て、夫婦は警察署に連行される。

そこで警察官から、「死刑になるが、観光客には優遇措置がある。クローンを作って、そのクローンは遺族の手によって殺される。それが遺族の名誉を守るための手続きであり、あなたは自分のクローンが殺される様子を見る義務がある」と告げられる。

地元住人は殺されて帰らぬ人になっても、高級リゾート地で遊ぶ白人は、犯罪行為をしてもお咎めなしで免罪される。本作には植民地主義的な白人に対する批判的な視座もあるが、そこが主題ではない。

ジェームズは自分のクローンが命乞いをして殺される様子を見て、かすかに笑う。その様子を見た妻のエムは戦慄して不安を吐露するも、ジェームズの反応は乏しい。

そして、ガビとアルバンとその友人たちは、何度も島で法律を破り、死刑になっていたことが明らかになる。自らの特権を乱用して、地元住民たちの尊厳を踏みにじって遊んでいたのだ。自分たちが本物なのか、クローンなのかもわからない。ゾンビだとしてもわたしたちは生きている。リゾートに来ているんだから楽しまなきゃと、無法者として彼らはふるまう。白人はクローンが死ぬだけだが地元住民はそうではない。死んだらそこで終わり。その非対称性は現実世界が投影されているとも言える。

ジェームズには謙虚さが失われ、粗暴になっていく。ある出来事をきっかけに彼らから逃げることを決意するも、うまくいかない。

そこで、ガビに罵倒されるのだが、そこがすさまじい。

「あなたの作品なんて読んだことがない。でも、酷評されているレビューは読んだ。才能がないことだけはわかっている作家だって書評家が書いている。妻の父親が出版社の社長だから、作品を出せたに過ぎない。あなたがつまらない人間だってことは知っている」

ジェームズは、ただのいじめられっ子だったのだ。サディズムを抱えた友人たちのはけ口となるおもちゃとして迎え入られただけで、仲間ではなかった。妻のエムは、自分で判断できる人だから、ガビは取り込もうとはしなかったのだろう。

地元住民を蹂躙して、乱交パーティーを繰り返していた彼らも、リゾート地から離れる日がやって来る。彼らは現実の暮らしに戻る。それによって、ジェームズは残酷なゲームから、ようやく解放される。パスポートを浴室に隠して、わざと帰国を遅らせ、彼らと遊びたがっていたというのに、島を離れる際の彼は死人のようであった。

本作の監督はブランドン・クローネンバーグで、デヴィッド・クローネンバーグの息子さんだと、鑑賞後に知った。クローネンバーグは一人しかいないと思っていたので、てっきりデヴィッドの作品を観ているのだと思い込んでいた。

しかし、その事実を知ると、偉大な父親の前で萎縮する息子である監督と、妻の庇護のもとで暮らす、書けない作家であるジェームズが重なる。彼自身が他人から七光りだと思われている恐怖、実は才能がないのではないか、という自身に対する疑念が作品になっているようでもある。

そして、人間は殺されるとき、自らの身体に痛みを感じ、苦悶する。自分が殺されるさまを見ることは、耐えがたいことだと思うが、ジェームズは案外平然としている。彼は島に来る前から、乖離しており、自分の痛みと向き合ってこなかった。無理やり、自分と向き合わせられ、疲弊して本作は終わる。

自分が「自分だ」と思っている自分とは、一体何なのか。自分事と他人事の境界はどこにあるのか。

直視できないシーンも多く、楽に観られる映画ではなかった。テレビでは放送できない、家族とは一緒に観られない、映画らしい映画で、ブランドンも、デヴィッドも、両監督を追いかけていきたいと思っている。

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