見出し画像

「平等」と「公平」

私はトゥレット症候群を抱えています。
トゥレット症候群とは、チック症が慢性化し、大人になってもチックの症状に悩まされることを指します。
一昔前までチックは「親の育て方が悪い」「本人の気持ちの問題」などと言われてきましたが、現在では脳の神経系にあるドーパミン系やセロトニン系の異常により引き起こされるものというように理解が深まりつつあります。

ですが、私はこれまでの人生で、この病気により馬鹿にされたりいじめられたり、周りの人間から白い目で見られるなど、酷い経験を嫌というほど味わってきました。
大学卒業後は、就職先の企業でもチックの症状が悪化しましたが、先輩にどれだけチックの症状について説明しても理解してもらうことができませんでした。
小学校時代には、親は私の病気を理解できず、親から酷い言葉を何度も浴びせられました。それが原因で、私は今でも親との関係が上手くいっていません。子供の頃に親にされたことは私の中で一種のトラウマのような状態で残り、私の中から両親への怒りや憎しみ、絶望といった負の感情が消えることはありません。

今回私が言いたいのは、平等と公平の違いについてです。

私は大学卒業後、介護の仕事に就いたのですが、その時に職場の先輩から「私はあなたを普通の人間として扱います」と言われました。その先輩は私のチックのことを知っていたので、先輩なりの親切心でそのセリフを言ったのだと思います。

ですが私は、先輩にその言葉を言われた後考えました。
私のように何らかの病気や障害を抱えている人たちが一体何を望むか?それは決して健常者と平等に(同じように)接してもらうことではないのではないか?
そのことに気づきました。

足が不自由な人に健常者と同じように働いてくださいと言っても無理な話です。私が目指す未来は、平等な世界ではなく「公平な世界」です。

私は「普通」や「常識」という言葉が嫌いです。普通や常識の概念は人によって違います。足が不自由な人にとっては、「歩けない」ということが普通なのです。私にとっても、チックの症状がでることが普通な状態です。

私は病気や障害を、その人の一つの特徴として捉えています。「いちごが好き」という特徴を持つ人に対して差別や偏見の気持ちを持つ人はいないと思います。それと同じで、私は「手が不自由」「足が不自由」という特徴を持つ人に対して差別や偏見の目で見る人がいなくなる世界を目指しています。

つまり、大切なのは相手と自分の共通点を探すことではなく、「相手と自分のどこが違うか理解する」ことだと私は考えています。それが本当の「公平な世界」だと思います。

相手との共通点を探そうとするから争いが生まれます。自分と他人の好みや価値観が違うのは当然のことです。色んな人がいるからこの世界は面白いんです。五体不満足な人や背が高い人、指が一本多い人や世界一背が低い人、この世界には色んな特徴を持つ人がいて良いと思います。
だからといって、障害を持つ人に対して健常者と同じように接することは、私は賛成できません。それはただ自分の価値観を相手に押し付けているだけです。「平等」とはそういうことです。

私が目指しているのは平等ではなく公平な世界です。
いつかそんな世界が訪れることを願って。

賛否が分かれると思いますが、この私の戯言を今後の世界のあり方について考える一材料にしていただければ幸いです。
ここまで読んでいただきありがとうございました。では、失礼します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?