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救われた話

今日は朝から非常に落ちていた。
理由的には色々あったけれど、一番の理由は人との関係性につかれてしまったんだと思う。
気を遣う。誰かが傷ついていないか心配する。
そのうえでその人自身が溜めてしまっていないか不安になる。
直接聞けばいいって思うかもしれないけれど、直接聞けないからこんな考えになっちゃうのよね。
マジで悩んでしまっていた。
悩むがゆえに何も手に着かない。

やべ、自分の病気になったこと書いてたんだけど、あまりに暗すぎて閲覧注意すぎたwwww
別記事にするので、閲覧注意ね!!!

ということがあり、日々鬱屈した生活を過ごしていた。

この病気になる前に、仕事にかなり悩んでいて、自分ができていないからだと強く思っていたんだよね。
そして6月に大阪の方へ旅行するタイミングがあり、USJ行ったり京都行ったりと旅行を楽しんでいた。
京都では神社巡りをして、仕事のこととかを悩んでいることを参拝しながら清めてもらっていたんだよね。
そこで、ある神社に行ったんだ。

安井金比羅宮

ここはすごく有名な縁切り神社だ。
昔にも来た事あったがあまり縁切ることがないなって思ってその時はただ参拝しただけだった。
今回は仕事に悩んでたので、仕事ができない自分自身の弱い心と、何事も続かない持久力のない弱い心と縁を切りたいと願ってお札を書いたんだ。

はい、その結果
三か月後に心をすべて壊されて鬱病になりましたとさwwww

まぁ、ここまでがひどいところ。
ただ、もちろんそれだけじゃないのがこの神社のすごいところ。
壊されて、なかなかにつらいことはあったけれど、仕事に対する向き合いかたから、持久力の無い心とかが病気になる前と後では180度変わったんだよね。
仕事に対する向き合い方は、今までは仕事80、プライベート20くらいのパワーバランスから、今後は仕事30、自分40、家族30くらいのもうほぼプライベートオンリーと言ってもいいほど仕事のバランスをなくした。
仕事ができない自分自身というより、仕事に付きっ切りすぎて、仕事を割り切ることができなかった自分が悪かったんだなと実感したのよね。
だからこそ、今は頑張れって人に言うより、頑張るなって人に言うことが増えた。
もちろん与えられた仕事はきちんとやるよ?でもそれ以上を求めないし、前みたいにどんどん上に行こうとか思わない。
すごく卑怯な技で、何かちょっとでもきつければ自分病気なんでって通すつもり。といってもできることとか色々やっちゃうとは思うのよね。
それは分かっているけれど、やらない強さってのも大事かなと思うから、そのくらい仕事への気楽さを増やしたのよ。
また、次の持久力の無い心という部分。
noteの記録は途絶えちゃったけど、一日2000文字くらいを40日くらい続けたかな?
更新するだけならだれにもできそうだけど、ちゃんと文字数を書いて更新させたということが、今までではできなかったこと。
一週間で小説を仕上げて賞に応募したりと今までの自分からすごく脱却できたって思っている。

あと、最近FFさんたちがつらそうな人にずっと声がけしているやつ。
あれも昔からのように思えるかもしれないけど、実はこの鬱病が回復してきてからなんだよね。
よく、ポジティブ名言を残している自分のFFさんに「えんさん」って人がいるんだけど、あの人も最初からずっとポジティブじゃなかったの。
一度つらい時期を経て、ポジティブに変わっていったんだよね。
自分も同じ、つらい時期があったからこそ、ポジティブになることが大事ってのがよくわかった。
ポジティブってのは絶対必要なこと。でも、ネガティブも必要なのよ。
ポジティブは気分が上がることで調子が良くなる。
ネガティブというのは気分は一瞬下がるけれど、それを改善できたときにプラスに働いてくる。
ネガティブがあるからこそ修正すべき部分が見えてくる。
でもネガティブなことの中で、傷つけるような言葉は言うのはダメなのよ。
言葉には重み、言霊ってのがあるから、そのように変化してしまう。
無理にでもいいように言って、そのように変わりたい!って願うこと。
それがすごく大事なの。


といった感じで、自分はこの休み期間で、神社のおかげもあり、大きく変化を遂げたんだよね。
友達もいっぱい増えて、大切な友達もできた。
今のつながりの人たちはすごく好き。

そして、今日、すごくおちてしまったからこそ、助けてってポストすると、とてもとても大きな声をいっぱいいただいた。
すごく救われたんだ。
自分の存在が非常に希薄になっていたところにあんなに声をかけてもらえるのは非常にうれしかった。

そしてその中でも大事な言葉ってのは

助けてって言うことの重要性

人は色々問題が起きたときに助けてって言いたいときも言えないで我慢するということが多いんだよね。
それはもちろん遠慮をしているというのあるし、他の人に迷惑をかけたくないというのもあるだろう。
ただ一番多いのは、自分が我慢すればいい、恥ずかしいから言えないということではないだろうか。
自分は今日の朝の段階で言ったときに誰にも声が届かなかったらどうしようとかは考えていた。
でも恥ずかしいことはなかった。
助けてって言える重要性を知っていたから。

つらいとき、悲しいとき、助けてって言ったときに手を出してくれる人の存在は必ずある。

それをみんな忘れないでいてほしい。

どうしてもの時は手を出してって言ってくれる人はいっぱいいるんだよ。

もちろんそのためには自分もいつも受け取ってばかりじゃだめだからね。
人にも手を差し伸べて、そして自分も手を差し伸べてもらえるように、人にやさしく生きる。
それが大切なんだ。

みんな本当にありがとう。


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