私は詐欺をはたらいている

ウォーキングをしていたら石像に出会った。
いつ建立されたものかわからないけれど、彼はずっとここに微動だにせず立ち右腕をまっすぐ前に挙げたポーズでい続けている。
どんな天候であろうと、鳥が頭に乗ろうと糞をしようとただずっと前を見据えて立ち続けている。
石だから。辛さを感じていないし他の場所へ行きたいとか座りたいとか眠りたいとかあらゆる希望もない。
苦しくないから大丈夫。
どこかで生まれた石を無理やり削って生まれた場所とは全然違うところに置かれているけれど、たぶん石は何も感じていない。自分に置き換える必要はない。
今私が踏みしめているアスファルトも苦しくない。マンションや橋や看板や横断歩道や信号機や街灯も、人間が人間のためだけに勝手に作ったものだけど、たぶん苦しくない。

歩き続けることができなくなってしまうから、考えるのをやめる。
私はありとあらゆる感覚や思考のセンサーをOFFにしていないとその場にいることさえできない。
食事をするための動植物の命だけではなく、あらゆる犠牲の上に自分が生きているということを感じないように考えないように受け止めないように気を付けなければ、自分が存在していることを許容できなくなる。
身勝手で残酷で自分の便利さや不快を排除するためならいくらでも残酷になれる自分と、動植物を愛で他者の幸せを願い一助になればと事業活動をし感謝され尊敬される自分は同時に私の中に同居している。

何十階建てなのか数えたくないほど高いマンションのひとつひとつに人が暮らしている。あの15両の電車に人が満ちている。行き交う人、行き交う車。目に見えない感じることのできない世界中の人。
全員に過去があり記憶があり未来があり、苦しみや喜びや悲しみや悩みや疲労があり、世界はそれらに満ち満ちて隙間などどこにもない。
受け止める必要もなければ受け止められるはずもないけれど、受け止めきれなくてその密度に耐え切れず消滅してしまいたくなる。
木っ端みじんに。量子さえも残存せず。

歩けなくなるから、発狂してしまうから、無視する。
ありとあらゆることを。ほとんど全てを無視して無神経を務める。
無視と無神経が自然なとき、私は良心や現実や希望を取り戻しまるでまともな人のようになる。

ここのところ、いよいよものごとの区別がつけられなくなった。正常と異常、善と悪、本当と嘘。
私は女である。これは本当だと思える。なぜか。戸籍上、身体的特徴、本人の自覚として女であるからだ。
では女とはなんであろう。特に本人の自覚の部分で女とはなんであろう。突き詰めていくと答えなどなくなる。私は女であることが本当か嘘か、その境目を探しに行っても見つけられない。
正常と異常も、善と悪も。全部一緒だ。境目なんてない。
自分で決める以外にない。

何もかもが自分次第で不確かで、自分の脳が認識して作り出した世界から抜け出ることはできない。誰もみなそうだとすれば、全員が海に浮かぶ孤立したつながりのない島である。

わかる、共感、心がつながる。それは幻だ。正確に言うと幻か本当にそうであるか判断するすべがない。
自分で決める以外にない。

いつからか理解を求めることをやめた。共感や理解が幻だと思ったから。
幻だから悲しいとかさみしいとか意味がないとかあなたは私がそんな感傷を抱いていると思ったかもしれないが、そんなことは言っていない。
全員が海に浮かぶ、ひとつひとつが唯一でかけがえのない島であることの証明だ。ひとつひとつの島が尊重されるべき島だ。
その事実を前にして、自分の承認欲求などあまりにちっぽけだと思った。大変に些末なことだ。
それぞれの孤島たちはそれぞれの自然や生き物やルールや特産品を大事にして、唯一無二であることを自覚し誇りに思い輝かせることに全力を用いるべきであり、私の承認欲求を満たすことやさみしさや痛みへの共感になど微塵もパワーをかけなくていいと思うのだ。
それだけひとりひとりがかけがえのない存在であると思っているのだ。

できれば私は、そんな島々が明るい気持ちになれたり前向きな気持ちになれたり楽しい気持ちになれたり、そういう一瞬を提供したいと思う。
私を理解したり寄り添うことに、そのかけがえのないエネルギーや時間を使わせてもいいほど立派な価値ある人間だと思えない。

人の話は聞いて自分の話はしないようにする。自分の話をするときは相手の気持ちがプラスになったり、しっかりと自身と向き合って逃げないぞという気持ちになれるように、話す内容を調整する。

最近自分を幸福な王子みたいに感じることが増えた。
幸福な王子のように金も宝石もないのに。痛みも苦しみも本音も吐露することなく、自分が欲しいものでも人が欲しがっているとわかれば人に与え、自分が欲しくないものが人も欲しくないとわかれば受け取り、内心怒りを感じながらも自分の痛みを訴えて今度は私が痛みを感じることを要望してくる人の要望に応え、人の幸福を共に喜び、励まし応援し続けてきたら、私は枯渇が目前に迫っていると感じるようになった。

欲しいものを欲しいと思う心が死んでくれたら。
自分の欲求や苦しみに脳が占領されることなく、他者への慈悲と感謝の気持ちを伝えるために淡々と行動できたら。。。
できたら?死んでくれたら?
楽になどなるまい。
苦しみのない生などきっとありはしない。

この一連の私の思想や行動は詐欺。

誰かの心にぬくもりや光や力を灯したくて、誰かの心が明るく前に進むきっかけになれるならばと言葉を選び振る舞いを選び、誰にも苦しみを告げず枯渇していく私は詐欺をはたらいている。

どこに本当があろう。どこに本当があろう。


ひんやりする。

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