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葡萄と桜、或いは梨に関する考察:『私に天使が舞い降りた!プレシャス・フレンズ』感想

 『私に天使が舞い降りた!プレシャス・フレンズ』を観てきました。TVアニメ版が放映されたのが2019年冬なので、OVAを含めなければおおよそ3年半ぶりの新作。無論我々はあの時より3年歳を取っていますが、銀幕の中の彼女たちは小学生のままで、相変わらずの天使っぷりを遺憾なく発揮。届かなくて眩しい…。

 わたてんという作品は、おねロリ要素があるものの、それ以外はドタバタのギャグコメディ色が強めの作風。百合姫の連載陣の中ではそこまで百合要素が強くはない。どちらかというときらら作品のような日常系寄りで、同じく百合姫の連載作品である「ゆるゆり」にテイストが近い。また、登場人物がほとんど小学生であるため、同性に向ける「好き!」の感情も生々しくなく、基本微笑ましいものとして処理される。

 それゆえ日常系アニメとして放送時も一般受けが良かった印象だが、本劇場版もその例に漏れず、視聴していて楽しい気持ちになってくる大変素晴らしい作品でした。ひなたの「おぉ~!」はいつ聴いても安定感があるし、乃愛ちゃんの触角は感情のバラメーターになっていて可愛いし、夏音小依ペアの共依存ぷりは相変わらずで、全体的に「こういうのでいいんだよこういうので!」の連続で構成されているため、これにはファンも大満足。視聴者の見たかったものが直球でお出しされるのは嬉しい。

 あらすじとしては、今回わたてん一行は夏休みを利用して、いつもの街から遠く離れた花ちゃんの祖母の実家へ遊びに行くことに。そこでみやこたちはある人たちとの出逢いを通じて、思い出を積み重ねていく…というもの。

 ところで、わたてんといえばアニメ最終話でアニオリの劇中劇を唐突にぶっ込んできたことで結構話題になりました。その内容も結構攻めたもので、童話の人魚姫を下敷きにした、天使と人間の種族差による愛の物語でした。そしてこれは本編を観ていただけば分かるものですが、明らかにわたてん本編の根幹を成している「百合」と「年齢差」といったテーマを、劇中劇用に置き換え再構成したものになっている。つまり、コメディ色の強い本編とは分離した形で「百合」というテーマのその先にある現実と真摯に向きあった結果なのですね。案外、この作品はそういうことを「やってくる」作品であるというのを最初に念頭に置いておきたい。

 さて、劇場版本編の話に入ります(ネタバレを含みますので、本編を視聴してからの閲覧を推奨します)。まず劇場版で新たに登場する人物を整理すると、

白咲 桜
白咲 花の祖母。花と同じヘアピンをつけており、花に髪飾りを上げた人物でもある。

まち  
白咲桜の親友で桜より年上。年齢差は恐らく花とみやこと同じくらい。桜、花と同じヘアピンをつけている。

 ここまで来て「おや?」と思う視聴者が殆どだろう。名前が「桜」⇔「まち」で「花」⇔「みやこ」の分かりやすい対比になっている。また、同じヘアピンを身に着けているという記号的特徴からも、分かりやすく対比的な関係性を演出することが目的としたキャラクターである。これが何を意味するのか? 順を追って考えてみる。

 まず、本作のメインテーマを、サブタイトルにもあるように「友情」であると考える。そうした場合、桜とまちの関係性は、花とみやこの将来像の暗示ということになる。
 劇中で、桜とまちの仲の良さを羨んだみやこは「私にはそういう友達はいないから」と発言する。それに対して桜が「花とみやこは良い友人に見える」と返し、みやこが戸惑うシーンがある。つまり、みやこは花との年齢差を気にしている。子供と大人である以上、花は庇護すべき対象であって、対等の関係を自称するのは立場上おかしいのではないかと内心思っているのだ。また加えて言うなら、二人はギブアンドテイクから始まった関係であり馴れ初めが少々歪だ。そこに後ろ暗さを感じているのだろう。
 だが、年齢差があるのは桜とまちも同様であり、そしてそれは年月によって覆い隠される程度の問題に過ぎない。桜とまちの存在は、そうしたみやこの葛藤に対する肯定であり、二人の関係性に対する回答となっている。

 また、実は今作では引け目を感じているのは実は花も同様である。生来引きこもり気質である。それを半ば無理やりに借り出したことを後ろめたく思うかのように、劇中で花は表情こそ普段通りだが、みやこの様子をしきりに気にして見せている。

 そんな二人の間のわだかまりが氷解し、心の距離が近づいたところでラストのヘアピンを探す場面に繋がってくる。ヘアピンを探しながらこれまでの思い出を振り返る花。自分の大切なもののため、なりふり構わず探してくれるみやこに感じ入るものがあった花は、お返しにとばかりに蛍を見せる。利己的なギブアンドテイクに始まった奇妙な関係性を、利他的なギブアンドテイクで清算し、互いが互いのために歩み寄るその姿は、まさしく桜とまちの関係に重なるだろう。

 メイン5人同世代の友情。親世代の友情。そしてその更に上の世代の友情と、花とみやこの友情。年齢差というのは思春期における一過性の問題に過ぎず、またどれだけの年月を経ても変わらない関係性がある。そういった普遍的な友情の話を軸とした物語と理解できる。

 さて、もう一つの視点から物語を解釈してみる。もう一つの視点とは、これは直球で「百合=同性愛」であると考える。

 わたてんの世界では男性は極力排した形で描かれており、父親すら出てこない。言ってみれば生物的な営みとは隔絶された「箱庭」であり、無粋な言い方をすると「虚構の世界」である。しかし、ここにきてメインキャラクターの祖母世代の登場と、帰省、電車旅行というキーワードが加わることによって、「世代間のバトン」「箱庭からの脱却」という色を意識的に出そうとしていると捉えられる。これはかなり挑戦的だ。リアルな問題として、百合という関係のその先に待ち受けているものを明確に描こうとしている。

 当然の話だが、花がこの世界に産まれているということは、桜は異性と男女の関係を持ち子孫を残しているということになる。ここにひとつの疑問の余地が生まれる。百合姫作品だからというメタ的な視点ありきの疑問ではあるが、その疑問というのが「桜とまちの間に恋愛感情はあったのか?」ということである。
 もし二人の関係が友情ではなく恋愛関係にあった場合、物語の観方は大きく変わってくる。そこにあるのは「男女が婚姻関係を結び、子孫を残す」という、生物としての本質および社会構造に対して、二人が迎合せざるを得なかったというシビアな現実だ。(それでもまだ二人の間に精神的な愛が存在するのであれば、それは極めてエモーショナルな形で百合という文脈に収束することになるが)
 
 また、「桜」という名前と劇中に登場する「葡萄」について。これは分かりやすくヘテロセクシャルの隠語となっている(ぶっちゃけあまり浸透していない概念だと思うが)。またそれに伴い、花に対して「もにょっとした気持ち(≒恋愛感情)」を抱いているみやこは、劇中でぶどう狩りへの参加を断っている
 もう一つ。本作のメインビジュアルはみやこが花に梨を与えているものだが、本編には梨という要素は一切登場しない。本編で登場するのが葡萄であるなら、メインビジュアルで描かれるのも葡萄であるのが自然な流れであるように感じるが、そうなってはいない。なぜ梨が描かれているのか。なお余談だが、一般的に梨は「情愛」の象徴であると見なされている。情愛とは何か。原義を調べるとこう記載されている。

情愛:『親子・夫婦・恋人どうしのような近い関係の人に向けられる気持ち。』
『いつくしみ愛する気持ち。深く愛する心。なさけ。愛情。』

 さて、こうなってくると、桜とまちの関係性は先ほどの友情軸とはまるで正反対の性質を帯びてくることになる。それはつまり、TVアニメ本編12話で行われた劇中劇の再現だ。二人の間には性別差という大きな壁が隔たっている。しかしそれを受け入れた上で、桜とまちの間には友愛や親愛という異なる形での愛が残った、ということになる。切なくも尊い関係性だ。しかしここは劇の中の架空の世界ではなく、現実だ。それを見てみやこたちは何を思うのか。そしてこれから五年後十年後、胸の内に溢れる感情を前に、何を思うのだろうか。

 愛とは何なのか。性と愛は同一のものであるのか。であれば同性同士の愛とは何であるのか。この作品がそういった命題を我々に突きつけてきているように感じてならないのだ。

 本作ではヘアピンが小道具として重要な役割を担っている。そしてそれに対するスタンスは、各々の価値観の表れとしても描かれている。
 みやこは誕生日に花からもらったヘアピンを引き出しの奥に大事にしまい込む。対して、花は祖母からもらったヘアピンを肌身離さず身に着け、みやこに対しても「つけなきゃ意味がない」とまで言い切っている。
 今後二人がどういう選択を取り、どのような関係性を築いていくのか。愛は親愛として絆を育んでいくのか。または情愛として新たな関係性へと発展するのか。

 そうした考察の余地を許す懐の広さもわたてんの魅力のひとつだ。

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