痴漢とチーズインハンバーグ弁当


その日わたしは、仕事で疲れきった重い体を引きずり、急行に乗り込んだ。帰宅ラッシュの時間帯、選ばれた駅にしか停車しない急行電車は、各駅停車よりもはるかに混み合う。始発駅から乗り込み、吊革に掴まり、十分強揺られて混み具合を我慢すれば最寄駅に着く。そんなに空腹ではないものの、頭の中で駅前のスーパーに寄って、いろいろと買い込む算段を立てながら、わたしはその急行電車に乗り込んだのだった。

異変を感じたのは、最寄駅に着く数分前だったように思う。スマホに目を落とし、友人となんてことはない「シゴオワー!(仕事が終わったの略)」などとLINEをしていたときだった。


ーーーーーん?


先程の停車駅で乗ってきた人たちで電車は最初よりもかなり混み合ってきている。それでもわたしは人にそんなに当たらない絶妙な位置をキープ出来ていたように思う。

なのに、だ。

ふと、お尻にだけ生暖かい不自然な違和感があった。もっと言うと、お尻の割れ目にだけその違和感があった。身体のどこも人に当たっていない状況で、ナニカが、異物が、そこにだけ密着しているように感じられた。


ーいやいや、だって後ろの人こっち向き(同じ向き)じゃないよね?


何の根拠もなかったが、最初にそれが浮かんだ。あり得ない、という考えがまず頭をもたげた。痴漢の被害なんて学生のときから久しく遭っていない。妙な違和感をおぼえてから、少し当たりすぎている位置をずらし、ソレをそこまで当たらないようにしてから、真っ暗な車窓を鏡がわりにしてじっと前を見据えた。

血の気がひいた。

わたしの後ろに密着していたからか、姿ははっきりと見えなかったが、わたしのすぐ真後ろから伸びる吊革を持つ手がこちら向きだった。と、いうことは、身体の前面がわたしの後ろにある、ということは、、と連鎖的に自分が痴漢の対象になっているということを認めざるを得なかった。

咄嗟にてっきり、気づかぬ背中合わせの人がカバンの角をお尻に当ててしまっているとかだと思おうとしていた。そう信じたかった。

股間押し付け型の痴漢をされていると認識してから、恐怖で身体がこわばる。スマホに目を落とすことももう出来ない。わたしは途方に暮れて、真っ暗な車窓に映る自分を睨み続けた。そこに犯人の顔が見えているわけでもないのに。

声を上げるべきだと思った。でも、声が出なかった。股間押し付け型が痴漢として扱ってもらえるのかわからない、畜生、ちゃんと調べておけばよかった、この殺伐とした満員電車で周りの人が声を上げたわたしを助けてくれるかなんてわからない、このコロナ渦でなおさら非協力的な人が多いのではないか、この男が頭のおかしい人で逆恨みされて後々殺されたくない、はやく家に帰りたいのにここで声を上げたらしばらく帰れないのではないか…

親友が学生時代、朝痴漢ですと声を上げたら、午後の6時間目まで学校に来られなかったことまで思い出した。

パニック状態の頭でいろいろと考えて、目だけで周囲の人の顔をみて助けてくれそうかなど考える中、ふとわたしは思い至った。



ーこれはすべて、加害者側の発想だ。声を上げないための言い訳ではないか。声を上げない自分を正当化するための免罪符ではないか。


“当てているだけだから言い逃れできるだろう。”

“このコロナ渦で声を上げにくいだろう。”

“周りはきっと助けないだろう。”

“俺に恨まれたくないだろう。”

“面倒なことは気づかぬフリをして早く帰りたいだろう。”


ゾッとした。そう気づいた瞬間、心底、心底自分に失望した。


男は無理な押し付けはやめて、わたしの様子を伺っているようだった。それはそうだろう、急に真っ直ぐ前を向き虚空を睨み出したのだから。

最寄駅についた。スイマセンネと斜め前の老婆がわたしと痴漢の間を通ろうと降りる準備を始めた。ドアが開く。わたしも降りるので、身体ごと振り返る。じっと痴漢の顔を見た。このご時世柄当然ながらマスクをしていた。気まずそうに見えた。わたしの顔をチラッと見て、とぼけているようにも見えた。また、怯えているようにも見えた。人に流されるフリをしてわたしから遠い位置の車内に紛れていった。

わたしは何も出来なかった。降りるまで、最後に顔を軽蔑の念を込めてじっと見ることしかできなかった。気持ち悪い感覚が残っているので最寄駅のトイレに寄り、衣服が汚されていないか確認した。背伸びしてトイレの鏡で後ろ姿を見る。大丈夫。よかった。新しい衣服だった。

寄る予定だったスーパーに行く。アルコール消毒をする。カゴを持つ。商品を見る。商品を見る。商品を見る。何も買う気が起きなかった。わたしは何かを見ているようで何も見ていなかった。痴漢に遭う前の自分にはもう戻れないのだと痛感した。ゆっくりと歩いて帰路に着く。服を脱ぎ捨てて洗濯機にまとめて突っ込む。ベッドに倒れ込む。あの不快な感触が残る下半身ごと、“わたし”から切断してしまいたかった。

自分に落ち度がないか考える。当然、なかった。悔しかった。虚しかった。情けなかった。何より、鬱屈と溜まった濁った性欲を心のある他人の女性にぶつける男が信じられないし、怖いし、許せなかった。セクハラ、レイプ被害などこの世に蔓延しているけれど、わたしはこれ以上の性加害をくわえられたらショック死するかもしれないと思った。

押し付け 痴漢 でググった。痴漢体験告白、痴漢を楽しむコツ、痴漢で捕まらないためには?という掲示板や痴漢冤罪を疑われたら?というサイトばかりが目についた。「痴漢、魔が差してやってしまうことありますよね。お気軽に弁護士事務所に相談してください!」との弁護士からの加害男に向けた軽くて浅いコメントに吐き気がした。

無意識に誘ってる女はいる、痴漢してオーラが出てるなどと吐く奴は、めちゃくちゃに殴られたいオーラが出てると言われて原型なくなるまでぐちゃぐちゃに殴られればいい。

痴漢されるってモテる、オンナとして見られてるってことじゃーん、されない女の身になってよー!などとほざく人、女だけど女の敵。


震える手でコールして親友に言う。怖かったね、咄嗟に何も言えなくて当然だよと言われる。スーパーで何も買えなかったというと宅配で美味しいものを食べろと言われる。夜の9時過ぎ、お店はほぼ閉まっている。ウーバーイーツで頼んだガストのチーズインハンバーグ弁当を食べる。美味しくない。ブヨブヨの肉。チーズも溶け出さない。ガストは悪くない。すべて痴漢のせいだ。

ナンパを断った女は鼻の骨を折られ、胸の感触がよかったからとわざと駅構内でぶつかられ、女性専用車を作っても女ばっかり優遇しやがってと無理解な男たちにやっかまれる。

世間は、女にとって思った以上に地獄かもしれない。

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