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再生の物語。そしてWi-Fiは大切。『アンドレ・デジール最後の作品』



共鳴がテーマのこの作品、Wキャスト両パターンとも観劇しました。

意図された通りに自分の心が共鳴出来たかはわからないし、まだ公演をやっているうちに色々と書くのはどうなんだろうかとも思いましたが、まずは熱いうちに今の感想を綴りたいと思います。

端的にどんな物語かというと、みんなそれぞれのひかりを求めているお話で、大切なことは目に見えるものではなく、誰もが人と繋がっていると気付くことなんだよ、というような内容でした。

 両キャストともにそれぞれの良さがあって、そして両方観るからこそ、ひとつひとつの台詞、行動が別の見え方をするような作品でした。当然のように楽曲も違う響き方をして、少しずつ違う印象を持ちました。それゆえ制作やプロデュースする側の方々が、未来に幾度となく再演され、色んなキャストで公演していきたいという想いもわかるなぁ、という感想を抱きました。

 以下、内容に大きく触れた個人的感想・考察ですのでご注意ください。
※プログラムに載った楽曲をもとに記憶を辿っているので、場面が前後している可能性があることお含みおきください。


エミール・マルタン/アンドレ・デジール :ウエンツ瑛士さん、上川一哉さん
ジャン・コルディエ :上山竜治さん、小柳友さん
マルセリーナ(デジールの恋人)/他 :熊谷彩春さん
エミールの母/エトワール/他 :綾凰華さん
老エミールの介護士/ペイネ/他 :藤浦功一さん
パトロン/美術取集家の孫/他 :柴一平さん
エミールの父/他 :戸井勝海さん
訪問客(デジールの娘)/他 :水夏希さん



 舞台装置は中央に大きな額装が吊り下げられ、それと客席側をはさむようにして革の一人掛けソファが置いてある、無駄なものが一切ない舞台。
「美術館へようこそ」と、学芸員の熊谷彩春さんの美しいソロで公演ははじまります。第一声から圧倒的、そして絶対的なヒロインの音色をもった声を聴いて一瞬にしてこの舞台は素晴らしいものに違いないと確信しました。
この作品に出演する8名が、メインの役とは違った装いでありながらも揃って歌います。
「命の輝き追いかけ 旅に出よう」

 年老いたエミールが美術館にやって来て専用の鑑賞席でじっと額装の中の一枚の絵を見つめ、「ジャン そっちはどうだ?」とピアノの伴奏で歌い始めます。
ウエンツさんのエミールが歌うこの1フレーズは胸を締め付けるほどに切なくて、あぁジャンは亡くなったんだ、と悲しい気持ちに包まれました。「本当に 二人で この絵を…」そうして額装が消え、観客は額装の中の過去の物語へいざなわれます。


 舞台はエミールの父親(以後:マルタン氏)の画廊へと転換します。時間軸はエミールがジャンと出会う少し前の物語。子供のころから絵の才能があったエミールは、ある時から心のある絵が描けなくなってしまっていました。そんなエミールがマルタン氏に見せた絵は有名画家アンドレデジールの作品の模写でした。マルタン氏はエミールの才能を信じているものの、どう言葉をかけていいかわからず、ストレートな物言いで自分の絵を描かないことをなじってしまいます。
自分の絵を描けなくなってしまったエミールは逃げるようにして旅に出ます。大好きなアンドレデジールが辿った道を、スケッチブックを持って。

かつてエミールに共鳴すること、感じたものを描く楽しさを教えてくれたのは彼の母親でした。
彼が幻視する母親は朗らかで、子供のように素直で可愛らしく、家族を照らす太陽のような人でした。
「ねぇ 私たちって絵具みたいね 赤と黄色混ぜたらオレンジになるみたいに」

画廊の場面をはじめて見たとき、悲しみが満ちた部屋だとそんな風に思いました。親子喧嘩のような、傷の舐め合いのような言い合いから感じたのは、マルタン氏は苦しみも抱えて生きていく頑なさも持っているような、それとも、心が鈍くなってしまって寄り添ってあげる余裕があまりないのかもしれないような、どちらの思いも感じとりました。
一方で、独り部屋に残されたエミールは、まるでそこにあった過去に本当に取り残されていて、どうしようもなく助けを待っている弱さを感じました。ここから逃げたいと歌うエミール。逃げ出した先でも彼は想い出に囚われていて、自立が出来ていないようでした。

この時の上川さんエミールの歌が凄く内に籠った歌唱で、身動きが取れなくなっている彼そのものを表現なさっていて、助けてあげたいともどかしく思ったほどです。幻想として現れる母親は当然エミールの方は見ていなくて。客席ひとりひとりをじっと幸せそうにみつめて歌う、その歌声や表情が明るさで満ちていればいるほど、エミールの苦しみや残った家族を覆う影は重く感じられました。

 そうして訪れた湖のある街で、エミールは一人の人に出会います。ジャン・コルディエの登場は鮮やかでアンドレ・デジール美術館の案内をしている場面から。
ジャンは軽妙な歌に合わせて、三枚の絵を観光客に紹介します。
絵は「ジャンヌ※」「憂鬱な漁師」「洗濯をする少女※」(※台詞中のタイトルとは違うけどこんな感じ)でした。
この三枚の絵は、この作品に登場する人物の写し絵のようでした。
洗濯をする少女は後半にマルセリーナ(熊谷彩春さん)だったときちんと正解が示されますが、漁師はマルタン氏(戸井勝海さん)なのだと思いました。
マルタン氏の画廊のテーブルには1幕でも2幕でも背表紙が見えている本があってそれは『Bluewater Fly Fishing』というタイトル。画廊なのになぜ海釣りの本なのか気になって仕方ありませんでした。妻を亡くしたという事実は悲しいのだけど、現実はそんなものなのだと受け止められている印象もありました。それは父親という役割が彼を生かしているというか。贋作を売ることで生計を立てているけど、仕事としてプライドは持っていて、こんな人生も悪くない、と。そのことを示唆しているのかなと想像してみていました。

 ジャンの語る“絵画の内側の話”を聴きながら絵を描く意欲が湧いてくるエミール。この時の上山さんジャンの歌が本当に素敵で、まさにミュージカル。抑揚やリズム感が良くて凄く惹き込まれ、エミールが没頭する心情に強く共感出来ました。
初めて自分の部屋にエミールを招き入れるジャンが、まるで初めて彼女を部屋に連れてくるような、秘密基地に連れてくるようなそんな感じがあって両パターンともなんだか可愛かったです。
アンドレ・デジールの絵画の中で何が一番好きかなんて選べない!と絶叫したり、初めて衝撃を受けた絵は!?、だとか言っている姿が純粋で真っすぐな子供のようで、そしてもうオタクでしか無かったです(笑)。

幻の『アンドレ・デジール最後の作品』は『絶望』・『再生』どちらを描いたものだったのか。

 2人が初めて一緒に描いた絵は、エドガー・ドガの『エトワール』。
ジャンがパリの光と影を話し、エミールが描く。そして舞台ではその世界を可視化します。エトワールを演じるのは綾凰華さん。この絵は私でもその薄暗い講釈付きで知ってるくらいに有名な作品。だから観る前から少し怖かったのが本音です。

パトロンが居なければ成功できない世界で、男に手を取られエトワールを手にし喜ぶのもつかの間、次の瞬間には身体と心がバラバラになっていく様が悲しくてずっと涙を流しながら観ていました。それでも、絵画と同じ構図になった一瞬は切り取って残したいと思ったほど印象的だったし、パトロンを演じる柴一平さんにリフトされ逆さまになった綾さんの無の表情と真っ直ぐなつま先は本当に綺麗だった。自分を無にしてパトロンの膝に座らされ再び人形のように立つその一投足に釘付けでした。
この場面の一連の振付はお二人だからこその振りであったと思います。

ここでこの絵にしたというのは、演出にバレエを取り込みたかったこと以外にももちろん理由はあるのだろうと思っていて。絵画の中にある光と影を分かりやすく表現提示することで、この作品におけるエミールとジャンのそれぞれが持つ光と影のようでした。そしてそれは一言で、綺麗だとか、悲しいだとか言えないものなのだろうなと感じました。


 贋作を裏ルートへ流すマルタン氏の画廊に、贋作『エトワール』を持ち込む小柳さんジャンの台詞間の良さにクスッとさせられ、そして怪しさ抜群なのに、不思議と滲み出る人の良さに、こいつを信じてみようと思わせる説得力がありました。こんなことがあったよ、と夢想するように母親に歌い掛けるエミール。気持ちがようやく前へ進んでいくウエンツさんエミールの歌声は爽やかで清々しいほどでした。ジャンと意気投合したエミールとジャンふたりの楽曲 ♪「二人なら」は無限の可能性が広がって、お互い伴侶とさえも呼べる友を得て、朝日の昇る大海原へ船が出向していくようでした。エミールの事を隠し共同制作をマルタン氏の元へ持ち込んだ事がきっかけで、沢山の贋作を描くように持ちかけられるジャン。
「絵が必要です。あなたは救世主です。」
「世の中ってそんなもの」
そんな言葉でころっと丸め込まれるジャンもやっぱり純粋な人なのだと思いました。この時の楽曲がもうみんな本当に楽しそうで…綾さんもショーとして楽しんでいらっしゃるようでした。


 エミールにはオリジナルの作品をと願いながらも、共鳴することが楽しくて、沢山の贋作を描いていく二人。

二人でひとりという一体感は上川・小柳ペアに強く感じ、二人だと無敵感はウエンツ上山ペアに感じました。なんというか…上川さん小柳さんの二人は、互いの持つ影の部分に引かれ合って補い合って二人で高みに上っていこうとする感覚で、ウエンツさん上山さんの二人は互いの持つ光の部分に触発し合ってどこまでも強く輝こうとしていくような感覚がありました。


 幻の『アンドレ・デジール最後の作品』を描くことになった二人は、デジールの想いに共鳴して、絶望の絵を描きはじめます。
光の精のような、水の精のような青い衣装に包まれたダンサーたちが現れエミールを絶望に飲み込んでしまいます。倒れたエミールが目を覚ますのを待っていたジャンがかけた言葉は、エミールの求めていた事とは乖離してしまっていました。ジャンは描かれたその絵に興奮しきっていて、そこにエミールの望まない物を描き加えます。
信じていたのに救いの舟は来なかった。
現実には、期待していた反応が返ってこない事ってどんな仲でもあることだと思いますが、エミールにとってジャンは他者ではなく、限りなく自分との境界線がなくなってしまっている相手であるが故に、ひどく裏切られたような感覚になったのだろうなと思いました。

エミールが去ってから、 “絶望の絵に必要なもの=エミールが必要とするもの” が何であったかに気付きますが、固く心を閉ざしたエミールは、二度とその絵にも、ジャン自身にも向き合うことはありませんでした。

 エミールの心情を想い、依頼主のペイネに見せるつもりのなかったその絵は、結局ペイネの手に渡ります。
「そう 最高額!」
ロシアの民族音楽のような雰囲気の曲を、アナウンサー役の綾さんを中心にして歌います。楽曲終わりに、初舞台のラインダンスのようにしてみんなで上手袖へ捌けていくのがとっても可愛いかったです。水さんのあんな姿がみられるなんて!「驚きです」!

 ジャンはマルタン氏の画廊を訪れ、そこで彼がエミールの父親であること、そして家族の秘密を知ります。

マルタン氏の画廊場面は本当に胸に迫るものがあって、1幕で戸井さんが登場した時から、彼はこの物語の中で本当に生きてる、本物の父親だ、と何度も思いました。彼女は、家族って絵具みたいねとよく言っていたとマルタン氏の台詞にありましたが、「赤と黄色を混ぜてオレンジになるみたい」という歌詞が示していたのは、赤が太陽のような母で黄色は父、オレンジがエミールだったのかなと思いました。彼女の衣装がオレンジなのは母親が息子に愛情を沢山かけてきていたことともリンクするのかな、と。
戸井さんマルタン氏の語るように昔話を歌う声が懐かしさでいっぱいになっていて、愛情深くて、でも哀愁があって、切なくも本当に素敵な芝居歌でした。「別に美人じゃない でも可愛くて」そして太陽のようだったと妻を形容します。彼女はその共鳴力の高さゆえに彼女に恋心を持った男の瞳をも自身に映し出してしまい、マルタン氏に強い嫉妬心を抱かせてしまったのでした。
マルタン氏はエミールを本当に大切に思っていて、壊れかけた家族を、家族で在るようにしようともがいているようでした。マルタン氏は人生はそんなものと受け止めていたのではなく、彼のなかには妻はずっと居たからこそそう見えたのだと感じたし、その家族の光とは今はエミールの輝きであり、そしてそれを彼の中で消さないために強いジンを縋るように呑んでいて…そのボトルのラベルには「Lumière」と。
閉ざした心を開けなかった事で一生の後悔を背負ったマルタン氏と、過ちをどう回復出来るか分からず、絶望の淵で誰にも救われることなく生きる事をやめてしまった母親はどちらもエミールとジャンの行先を暗示しているようでした。

この父の告白場面で登場する妻(エミールの母)はかつての記憶の姿ではなくて、あの瞬間にも彼を心配していて、どうにかしてあげたいという愛情を感じました。マルタン氏は後悔や悲しみを持ちながらも、心には全てを受け入れる強さを持とうとし続けていて、この作品の中でもっとも心を寄せられる人物でした。

 家に戻ったジャンは、過去の話を聞いたことをエミールに伝えますが、シャットアウトしてしまっているエミールは、ヒステリックに「僕の全てを知ったつもりか」などと棘のある言葉を投げつけていて、観ていていたたまれなかったです。そんな最中に、招かれざる客の水夏希さんが訪れ、自分はデジールの実子であり、曰く、デジールは『最後の作品』を描く前に彼女の母=マルセリーナに出会い恋に落ちているのだから、それは絶望の作品であるわけがなく、発見されたという作品が絶望を描いたものならばそれは父の作品ではない、という言い分。
「あの絵はその愛を消し去ったのよ」
その証拠にマルセリーナの記した当時の日記を読んで聞かせます。

 舞台は暗転し、デジールとマルセリーナの出会った湖の場面へ転換します。デジールを演じるのが、エミール役と同一人物というのが面白いなと思いました。日記を聞きながら、エミールの頭の中を具現化し、その共鳴を可視化してくれる。

熊谷さんの歌声は小鳥のさえずりのようで、無彩色の舞台が彩られるように響いていて、可憐そのものでした。上川デジールの優しい歌声との重なりはふたりが互いに光を見つけたときのような希望に満ちていました。
絵を再び描こうと決意したデジールの歌は、描けない暗闇から遠くの光へ向かって歩を進めるように、マイナーの曲調から少しずつ重なった音がほどけて加速していく感じで…すごく美しい曲でした。
再び光の精のようなダンサーが出てくるのですが、青い衣装に顔にはそれぞれいくつかラインストーンがついていて。綾さんは両黒目の下2か所と、もう一か所(昼公演は右目の横、夜公演は右顎)についていて、男性ダンサーさんは眉に沿わせるようにつけていらっしゃいました。
絶望で飲み込んでしまう場面とは打って変わって、優しく柔らかな表情で踊る綾さんも本当に美しく、五感に響く場面でした。

 共鳴により出来上がった絵画を見たデジールの娘の水夏希さんの心の震えが伝わってくるよう。「心を照らし続けたひかり」という歌詞が心に強く残りました。
そうしてひとりでも描けるようになったエミールとジャンは別離の道を選びます。


――と、ここまでが物語の八合目です。


救いようのないと思われたエミールの物語。
観終わったあとには湖にかかった霧が晴れるような、清々しい作品でした。

 冒頭に紹介されたアンドレ・デジールの三枚の作品、ジャンヌとは誰のことだろう?と初めて観た時には思ったのですが、考えれば考えるほどに、本当は悲しいのに仮面を被って笑顔をつくるジャンヌはエミールに背を向けられたジャン・コルディエであったと思うし、ジャンと別離したあとのエミールでもあったと思い至りました。

内面を取り繕うことを、大人になる、とも言えると思います。二人は子供のまま共鳴し、別離により大人になりました。
エミールは最後まで気付けなかったけれど、一度大切にした関係性はたとえ目の前から居なくなっても心は繋がっていて、そのことに気付けた人にとっては小さな灯となるのだと思いました。

「今日もあなたと過ごせてとても幸せ」

それは目の前に居ない人かもしれない、人間ではなくて動物かもしれない、自分の作り出す作品であるかもしれない。

自分も心をひかりで照らし続けて生きていきたい、そう思えた観劇でした。
観終わってからも、どんな絵だったのだろう――その前向きな余白に思いを寄せてしまいます。

こんなに素敵な作品でも、もしも綾さんが出演していなかったら、私は観に行っていなかった。
またいつものように、綾さんに感謝。

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