一冊の本と懐かしき花束、最期の務め
これは私が、高校生の頃の話。
『memeちゃんとコラボしたいって子がいるんだけどね』
ある日のレッスン日、先生はそう言った。
震災から二年も経たないある日のことだ。
『しかも、アンサンブルじゃなくって、』
「じゃなくって」
『歌って欲しいんだって。』
「歌ですか?」
私は物心ついた頃からエレクトーンを弾いていて、小学校5年生の頃からソロでの演奏をするようになった。ありがたいことに年に数回こうして声をかけてもらえる機会があり、バンドの中にキーボードで入れてもらうとか、エレクトーンのアンサンブルチームに入ってみるとかして、ソロ活動以外にもそういうことをして、地域のホールやいわゆるZEPPとか、バーと一緒になった小洒落たステージで演奏していた。
けれど、歌で出てほしいなんて話はこれが初めてで、驚いた。
正直誰とコラボするかということはあまり気にしたことがなく、何を演奏できるのかということに興味があり、いつも楽しみだった。
「演奏曲はなんですか」
『Superflyの愛を込めて花束を。』
私はその時も、誰がそのパートナーとなるかを聞くことはなかった。しかし早々と先生が口にしたその子の名前に体が固まった。
『一緒にステージ出たいって言ってくれてるの、aちゃんなんだけど、わかる?』
私は何にも言葉を発することはできなかった。
その子は、私が震災の数日前に本を借りた学校の同級生mちゃんの妹だったのだ。
本を借りた友人、中学の時ずっと隣の席だった友人、泊まりがけの校外学習でもいつも一緒で、mちゃんの存在は私の中でいつも大きかった。
私たちは本が好きだった。
彼女はいつも本を貸してくれて、私も本を貸した。本を貸しあって、感想を言い合って、また新しいよい本に出合うと何の約束も無しに持ち寄った。
学校の先生の話なんて聞かずに、コソコソお喋りしたり、ノートにメッセージを書き合ってお喋りするのも楽しかった。
通学の電車で見つかってしまうとこれまた大変で、こっそり後ろからやってきていきなり後ろからぎゅっと抱きついてくる。
それも、ものすごい力で、勢いで、そして笑顔で。
「もー、びっくりさせないで」
むすくれる私のことはお構いなしで、メガネをあげながら、やっぱり私を抱きしめる。駅の改札を出てからもニコニコデレデレとしてついてくる。
『ごめんごめんー!memeちゃんお疲れ!今日どうだったー?』
「んー疲れたよ」
『うちも疲れたよー、はいこれ!』
「お!これ読みたかったやつ!」
『でしょ!めっちゃ泣いたよー、急いでないからmemeちゃんのペースで読んで!下巻もあるからまた持ってくるね!』
「ありがと、また連絡するね」
『はーい!じゃねー!』
そうして駅前で別れた。いつも通り。
満面も笑みの彼女は、あまりうまく笑えない真顔の私に、茶色い綺麗なショートカットの髪をなびかせて、まんまるの大きなメガネをきらりとさせて、ローズのいい香りをさせて、手を振った。
それが彼女との最後の思い出になった。
数日後に町を襲った津波に家ごとさらわれた彼女は、二度と戻ってこなかった。
私を抱きしめにこなかった。
本だけが、私の手元に残った。
彼女の本だけが。
彼女に返せなくなった本だけが。
彼女の香りがする本だけが。
そんな彼女の妹が、私と一緒に演奏会に出たいと言ってくれている。
こんなことって、あるだろうか。
「いつ、顔合わせですか?」
私は全ての言葉を飲み込み先生に尋ねる。
『来週、早速日程合わせよっか』
そうして彼女の妹と再開したのはレッスン会場で、私は全然うまく笑えなかった。ただただ、彼女と瓜二つのお顔をしたその子のことを見つめるだけで精一杯だった。
お互いに静かに、音でコミュニケーションを図るので精一杯だった。
彼女の演奏はとても可愛らしく、この曲を選んだ理由なんて聞けるはずもなく。
私は無心でただただ歌った。
彼女の家族は仮設住宅で暮らしていることを知っていて、家は流されてしまっていた。
だからこそ、私の手元にある彼女の本がより大事で、だからこそ、簡単に手渡すことができなかった。あの時のあの感情は今でもよくわからない。一刻も早く家族のもとに返したい。それなのに、さっと差し出すことができなかった。
私はその本を、演奏会の日に手渡すことに決めた。
『続きまして、演奏者〜〜〜、演奏曲は【Superfly 愛を込めて花束を】です。どうぞ!』
エレクトーンの上に指を置いた彼女とアイコンタクトをとる。
一つだけ互いに頷き合い、ピアノが始まった。
マイクを持つ私はとても不思議な気持ちでいて、きっと彼女もそうだった。
演奏中、目をあわすなんてことはできなかった。
最後までできなかった。
“いつまでもそばにいて”
最後のフレーズを歌った時、さらに目の前が真っ暗になるような思いだった。人を喪うということはそういうことなのだ。映画みたいに、ドラマみたいに、笑顔で綺麗に終わることなんて到底できない日もある。
彼女の丁寧で繊細で優しくて、少し弱さの残る演奏だけが私を支えた。
最後にお辞儀を合わせて、ステージを去ることだけに慎重だった。
互いに目を合わせられないから。
そうしてその後の演奏会はぼうっとして終わった。
気づけば、会場の撤収準備が進んでいる。
ようし、帰ろうか、という時だった。
『memeちゃん。』
そう言って、彼女と彼女のお母さんが私と私の母のもとに歩いてきた。
ひだまりのようにあたたかい笑みを浮かべた二人の姿。
私は徐に、本を手元に用意した。
彼女が遺した、あの一冊を。
その時だった。
『memeちゃん、本当に本当にありがとう!』
彼女のお母さんは後ろから、それはとてもとても大きな花束を差し出したのだ。
私は目を見開いたまま立っているだけがやっとだった。
彼女のお母さんの目からは涙が溢れた。
私の母も泣き出す。
私だけが立ち尽くす。
妹のaちゃんは、友人にそっくりのその笑顔で今度は、プレゼントのハンカチを差し出してくれていた。
『memeちゃん、今日は本当にありがとう』
私はやっとの思いで同じ言葉を繰り返す。
「こちらこそ、本当にありがとう。」
そうしてハッと我にかえり、本を差し出す。
「これ、ずっと返したかったの、お姉ちゃんから借りてた本。ずっと返したかったの。」
aちゃんと彼女のお母さんは、優しくその本を受け取る。泣くんではなく、ほっとした表情で。
家族が家族にだけ向けることのできる、あの微笑みで。
『大切にするね、持っててくれてありがとう。守ってくれたのよきっと、mの大切なものを。お家にあったらきっと、ぜーんぶ流れちゃってたから。memeちゃんのところに、寄せてくれたのよ、神様が。ありがとう、これ、宝物だ。』
彼女のお母さんは可愛らしく笑った。
やっと私も笑った。
やっとみんなで笑った。
私は大きな花束を、aちゃんとお母さんは友人mちゃんの香りが残る宝物を手にして別れた。互いの心に残るそれぞれのmちゃんの面影を映し出し、互いに最期の務めを果たしたような空気がそこにはあった。
あの頃は、こうして日々を生きるしかなかった。
誰もがそうだ。
自分ではどうしようもない何かに与えられた機会によって、どうしようもないことを時には乗り越え、踏み越え、どうにかこうにか時間を過ごしてゆく。
そうしているうちにもう、十年が経っているんだから。
やっとこうして言葉にできた。
十年が経ったから。
書いている間、あまりにも懐かしくて懐かしくて、彼女の名前のごとくパッと明るい思い出が蘇る。
今でも鮮明に思い出せる彼女の温度を惜しみなく感じながら、ようやく書き留める。
胸の端っこがキュッと切なく苦しくなるけれど、こうしてまた何年経っても思い出せるところに彼女は居る。そのことを大切にできたらそれでいい。
今夜は特別、なんという日でもないけれど、私は心の中でmちゃんを想う。
愛を込めて、花束を。
私は実は、今夜を機に初めてちゃんと、この曲の歌詞を読むことができた。
そうして初めて、ちゃんと、妹aちゃんがこの曲を選んだ十年前と向き合えたかもしれない。
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