愛の脱走するけど毎回ゲームオーバー

 発達障害をはじめとした先天的な動作性の欠如やある種の精神の繊細さに対する理解が社会に浸透してきたことによって、SNSなどの言論空間において「逃げてもいい」という旨の言説をよく見かけるようになった。重度ADHD診断済みの筆者にとって、そのような論調が優勢となることは本来好ましい筈であり、筆者自身が土壇場で「逃げる」という選択を採ったこともこれまで少なからずあったわけだが、この手の言説に対しては何とも言えない違和感を拭い去れずにいる。なぜなのか。それはきっとこれらの言葉の殆どが「逃げる」という行為のみを促し「逃げ方」という手段や「逃げた後の立ち回り」といった戦略面について全く言及しない無責任極まりないものだからだろう。ただ逃げるだけでは、人は現実に向き合い生きていくための精神的強度や社会性を失ってしまうのだ。だからこそ今回は、現実に打ち克てずとも負けないだけの精神的な強度や、浮世離れしすぎないだけの社会性を維持しつつ逃げるための戦略を、なるべく具体的に提案してみようと思う。

 この「逃げ方」について考えていくには、まず第一に「逃げ」という行為を推奨される「退避」とそうではない「逃避」に分類する必要がある。筆者は負荷に耐えられなくなった末の受動的な「逃避」を積極的には肯定しない。勿論、潰れてしまっては元も子もないため、緊急避難的な措置としての逃避こそ容認するものの、結果としてはあまり望ましい形ではないということはここに明言しておく。あくまで自らの意思で危機を予め察知して行う「退避」こそが、逃げの形態としては最も好ましいものであるといえるだろう。

 そして然るべき局面で「退避」を実行するためには、己のキャパシティを正確に把握しておく必要がある。これは前記事でも書いた「自分のできること・できないことを知る」の延長線上にあるスキルと言えよう。ここでひとつ注意しなければならないのは、参照するのは「できなければいけない」「できて当たり前」といった社会人として要求される水準としてのキャパシティではなく、あくまで自身の絶対的なキャパシティである。これだけ書くと当然に思われるかもしれないが、筆者には多くの人々が普段から自身のキャパシティを超えた働き方をしているにもかかわらず、それがあまりにも常態化しすぎているために誰も、自分が今キャパシティを超えているということを意識していないように見える。これは即ち当人が限界を認識した時には既にデッドラインを大幅に超えてしまっていることを意味しており、そのような状況から「逃避」へと追い込まれた場合、衝動的に自殺してしまうか、会社や対人関係に対する強烈なトラウマを植え付けられ、社会への復帰は殆ど絶望的になってしまう。つまり、逃げた後に復帰を視野に入れた長期的な戦略を組み立てられるほど十分な余力を残しているかどうかが、逃亡者の今後を決める上での分岐点となるわけだ。

 さて、肝心のキャパシティを把握する方法についてだが、基本的には「できること・できないこと」を理解した時と同様に、自身の仕事に関わる要素を「許せるもの」「譲れないもの」に分類していく。その中で「譲れないもの」に関してはさらに相互比較を繰り返していくことで、自身にとっての「絶対に譲れないもの」を設定する。そこがあなたのキャパシティのデッドラインだ。あなたがここを侵されたと判断した場合、それを退避の合図と定めればいい。逆に言えば、ここに関してだけは何があっても譲歩したり、飲み込んではいけない。とにかく、公的な要求に対して誰にも干渉されない完全な私的領域をひとつ確実に保持しておくこと。これが社会をサバイブする秘訣のひとつだ。全ての干渉を拒絶するのは協調性に欠け、かと言ってすべての公的な要求に応えようとするのは予後が悪い。だからひとつだけ、何があっても絶対に守るひとつを自分の中に定める。それだけでいい。

 次に、逃げた後の立ち回りについて。このフェイズで重要なのは、社会復帰に条件を定めることだ。そして直ちにその条件を達成するための行動を始めること。これは業務に全く関係のないことでも良いし、好きなことでも遊びでもなんでも良い。とにかく何かを始めて、ある程度の時間をかけて何かを達成する。それだけでなんとなくやれるような気がしてくる。ここではとにかく、踏み切れるだけの推進力を生むことに注力する。後は同じことの繰り返しだ。また、環境を変える過程で前記事にも書いた「できること・できないこと」も交渉材料として使うことができれば、成功率は更に上昇する。

 もちろん、資本主義社会そのものから降りてしまうのもひとつの手ではある。しかし、社会の外にも「社会」は厳然と存在するわけで、他者の干渉に揺らぐことのない強固な自我を持ち得ない限り、搾取や疎外の可能性を拭い去ることはできない。どの道そうであるならば、給料を貰いつつ、組織の庇護下にありながら社会を自身の自我形成の練習台にしてしまうのが、ある程度理に適っているのではないか。そして盤石の脱落態勢が整った頃合いで満を持してドロップアウトしてやるのもいいし、脱落するつもりでやってるうちに気が付いたらそのまま完走してた、なんてこともあるかもしれない。人生には意外と、そういう粋なところもある。

 「逃げる」という言葉にはネガティブなニュアンスや消極的ニュアンスが常に付きまとうが(それは"逃げてもいいんだよ"という言辞にも無意識的に表れている)、これを「撤退戦」と考えた時、逃げることは戦いとなる。取れなくなった責任を投げ出すのではなく、自身が取れる範囲の責任に収めるためにダメージをコントロールしていくのが「撤退戦」の考え方であり、長期的な有効性を持たない美辞麗句ばかりが幅を利かす今の社会にはそんな「戦術」こそが必要なのだと、筆者は信じている。





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