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遺伝的に正しくないがゆえに生まれた福音

「不都合な真実」系のコンテンツをあれこれ見ていると遺伝話に頻繁に行き当たる。
そのひとつ、橘玲著『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』の中の進化心理学の項を読んで、福音書の先鋭性を思った。

オスがメスの性的関係に嫉妬するのは、血のつながらない子どもを育てるという遺伝上の"被害"を防ぐためだ。

橘玲『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』

そして実子ではない子どもをあえて育てる決意をする父親が登場する伊坂幸太郎の小説『重力ピエロ』を引き合いに、「小説の世界を現実から切り離すためには『進化論的には存在するはずのない父親』というキャラクターがどうしても必要だったのだ」として、男性はよその子を育てようとはまず思わない、と「遺伝的に正しい」生き方を示唆している。

結婚前にマリアから懐妊を告げられたヨセフは、さっさと彼女を捨てても誰にも文句を言われないはずだった。
しかも2000年前のエルサレムである。どれだけ世間の目が冷たかったことか。
でも彼は自分の子として育てる決意を固め、マリアを娶る。

もちろん、聖書では、霊によって授かった子だからね!と神から言われて決意した、という設定になっているのだが、ひとりのキリスト者である私にとっても、処女懐胎は事実でも比喩でもわりとどうでもいいというか、処女は未婚女性の誤訳だった説が合理的だと思っている。

だから、マリアが自分のあずかり知らぬところで妊娠したと聞いて(『重力ピエロ』同様、性犯罪にあった可能性だってある)苦悩するも、「遺伝的に正しくない」人間ヨセフが自分の子として育てると決めたこと、その一点だけで奇跡だし、ゴスペルとして十分だと感じる。


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