頼もくなさと情報の非対称性について
私は、私自身のことを頼もしくないと思っている。
私はその実、仕事で――一つ一つは小さいけれど――ミスばかりしているし、さまざまな人のサポートがあってなんとかそれらをこなせているというのが現実だと認識しているからだ。
多くの人がそうなんじゃない? という慰めもまたあろうが、少なくとも私の自己認識はそうであり、そして私を除く多くの人は、私の目からは頼もしく見えてしまうのだ。
しかしプロジェクトマネージャーは、そんな私を「お客様からも信頼されていますし」と表現する。
そんなわけがない、と私は反駁したくなるが、仮にリップサービスで言っているなら、バカ正直に反駁するのもそれこそ本当にバカみたいだし、本気で言っているのだとしたら、それはそれで少々申し訳ない。
だから何も言えなくて、私はなんとなく口ごもってしまう。
そういう機会はなにも一度切りでない。というより、これまで何度もあったし、これからも何度かあるのだろうと思っている。
だとすれば、私はこのような問いを立てるべきなのだろう。
どうして私は、私のことを頼もしいと思うことができないのだろうか?
ここには情報の非対称性という問題が横たわっている。
私は、私は頼しいと思われるに値しないと思える情報を持っている。
先述の、仕事のミスしかり、マインドしかり――。
しかし、私もわざわざそんな「裏側」を開陳することはない。
その情報が、私にとって損となりうることを知っているからだ。
だから一部の人を除き、私の「不手際」という情報は知らない。
そのため、結果的に減点は私の体感ほど行われず、他人から見たときに私は「信頼」を勝ち得ていると評価を下されることになるのだろう。
そのようにプラスの評価が得られているなら良いことだ――この話は、そう完結させるべきものなのかもしれない。
実際、私も、私自身そう思えたらどれほど楽だろうか、と思う。
しかし私は、自分がなんだか多くの人を「騙している」ような気がして、罪悪感を抱いてしまうのだ。
本来なら、上記の「頼もしさ」について、私自身の肌感覚としてつかめるべきなのだ。
私はきっと他人から見たときに、このように見えるのだろう、ということが、なんとなく知覚できて然るべきなのだ。
しかし、私はどうにも自分の目で見えるものばかりを評価してしまう。
そして、この情報の非対称性つまり私のみが知っているという事実に目をつぶり、「あーあ、どうせ自分なんて」と思う。
「箱の中にあったボールを、A君はあなたが目を離している間にバッグに移し替えました。さて、あなたはまずどこにボールがあると思って探し始めますか?」というあの問いかけみたいに。
この気性が様々な問題の源泉となっていることは言うまでもないだろう。
転職活動だったり、社内でのセルフブランディングだったり――。
そもそも、新卒時の就職活動にしたってそうだ。
しかし残念なことに、性格の、思考回路の、そういった多くのものの根幹にこびりついた「これ」が、今から劇的に改善するとは思えない。
私はまた明日からも、この非対称性を考慮できぬまま、様々なことを「悪い方」に捉え続けるのだろう。
それが予期できること、それがおそらく当たることがなにより悲しい。
私の人生を、性格を、好転させる鍵は何処ぞや――。
それが分かっていれば、そもそもこんな苦労することもきっとないのだろうが……。
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