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同じであることばかりを志向することについて

恋愛において――恋愛に限らず人間関係というのは常にそういうものなのだが――同じであることを最大価値として志向することは破滅への道のりである。

人は誰しも、ずっと同じままではありえない。

だから、同じだったものも、いずれ同じではなくなってしまう。

また同じことを志向すればこそ、違いもまた目につくようになる。

そのことを、私も頭では理解しているつもりである。

なのに私は、いつもその人と自分の間にある類似性を確認しようとする。


読書の趣味とか。

音楽の趣味とか。

両親との距離感とか。


それは、スタンプカードを押していく作業に似ている。

私と彼女は、彼は、ここが似ている。そう思えた時に、スタンプを押す。

押すための空欄がたくさんあるスタンプカードはなかなか貯まらない。

そして、そのうちに機会を逸してしまう。

私の恋愛や友人付き合いは、いつもそんな感じだ。


近しいものを求めるのは、自分に自信がないからだ。

自分に自信がないくせに自己愛だけは一丁前にあって、自分を承認するための鏡として他者を利用してしまうのだ。

なんと浅ましく、かつ失礼なことだろう、と思う。


このように書いていると、ならば自分自身とだけ付き合っていればいいじゃないか、という意見も出てくることだろう。

つまり、誰とも深く付き合わず、自分ひとりの世界に閉じこもっていれば、誰にも迷惑をかけず、すべて解決ではないか。

しかし厄介なことに、それもまた私には叶わない。

なぜならば、私には同時に、自己嫌悪の傾向もあるからだ。

だから、自分だけで充足できず、誰かを鏡にしようとする。


本当は、同じものを違うふうに見て、その違いをこそ「面白いね」と笑いあえたらそれで満点なのだ。

パンが一つあったなら、同じふうに割れなくても、歪な形で「わけわけね」でいいのだ。

違う感想を持って、違うものが好きで、それでなんの不都合があろうか。


自己嫌悪と自己愛の親密な結合は、決して私を幸福へは誘わない。

いつも冴えないダンスみたいな一人芝居で、私をどこにも向かわせない。

そんな馬鹿みたいなことに、私は自ら陥っている。

それを思うたびに、ああなんと生きづらいことか、と思う。

自分で勝手にそうしているくせに、かくも人の世は面倒くさい、と思う。

なんとも我が儘で、なんとも子供っぽいな、と思う。


これは、とある映画を見た感想である。

そして同時に、私の宿痾でもある。

物語を自分に都合よく寄せて解釈しすぎであるという誹りもあるだろうが、兎角これが、私があの映画を見て思ったことなのだ。



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