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コロナによって仕事のストレスが可視化された話

初めてコロナに罹患した。

そして私は会社を丸々一週間休んだ。

体はとてつもなく辛く、今でも後遺症が残っているくらいだが、
この一週間は私にとって、今の私にとって必要なものであった。

年に一度、リフレッシュ休暇という名目で一週間休みを取ることができるのだが、
なにせ年一回の長期休みだ(GWや正月休みというものがないため)、
これでもかと予定を詰めに詰めてしまう。

なので、『ただただ休む』という目的で取る一週間の休みは、
私に数々の気づきをもたらした。

まず一番大きかったのは、ストレスからの解放だ。
ただ仕事に行くこと、は、私にこんなにもストレスを与えていたのか、
改めて気づくには十分なほどに、私の心は軽やかだった。

5日目に数十分近所を散歩したのだが、その時の心の晴れやかさはなんとも例えようのない素晴らしいものだった。

私はこんなにも素晴らしい瞬間を犠牲にしながら働いているのか、と。

そうして気づいた二つ目のことは、
会社が全てではない、ということだ。

元々大学を留年し、なんとか卒業したものの新卒採用に漏れてしまった私は、
紆余曲折を経て今の会社に就職した。
その間、選ぶ自由のないまましがみついた先がブラック企業だったり、
いわゆるフリーターも経験し、
未来が見えない絶望感もたっぷりと味わった。

そのため、安定した今の職場を離れるという考えはずっと無いに等しかった。
いや、辞めたい、という言葉を必死に打ち消してきた、と言った方が正しい。

事実、働き始めてもう十数年になり、若い頃に比べればだいぶと働きやすくなったし、
諦めによる処世術も体得してきた。

だが、嫌なことは減らないし、傷つくことも減らない。
それ以前に、合わない人間達と、あんなに狭い空間で顔を突き合わせ、
長時間を共にすることだけで、ものすごいストレスを感じる。

これは、あまりに身近な問題で気づくのは相当難しい。
私も休みに入るまで、特に大きなストレスを抱えている実感もなかったのだ。

しかし、そのストレスは確実に日々の煌めきを覆い隠し、心の余裕を無くし、私に在るべき穏やかさを奪っていたのだ。

初めて、強烈に、『働くこと』によって奪われているものの大きさを実感した。

だのに、私が居なくても会社はまわり、人々は大して気にするわけでもなく自身の生活を守り、淡々と私の居ない世界は続いていく。

職場の同僚や先輩と、口癖のように
『嫌なら辞めたらいいしね!』と言い合っていたが、
本気でそう思えたことは一度もなかった。
その言葉が心を休めてくれたことすらなかった。
なぜならそんなことできないし、してはいけないことだったからだ。

だが、今は本気でそう思う。
私は私の生活を守る権利があるのと同時に、私は私の人生を選ぶ権利がある。

日々の煌めきと、仕事でのストレスとを天秤に乗せ、
あまりにも後者が重くなってきた時、
私は仕事を辞める決断をするだろう。

そうならないよう、上手くバランスを取っていきたいものだが。

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