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現代の地獄

りゅうちぇるさんが亡くなったことにより、その誹謗中傷に注目が集まり、
そしてまた、もうおなじみとなってしまった『誹謗中傷者を晒上げる祭』が苛烈を極めている。

女性自身の記事において『現代の地獄』と題されたこの現象。
だが、今に始まった事ではない。
何か事件が起きると、髪の毛一本に至るまで無残にさらされる加害者や加害者家族。

大義名分を得た攻撃というのは、一番たちが悪いのだ。
だが、『この人は人を殺した人なので、殴ってもいいですよ』と言われて
果たして目の前にいる無抵抗な人間をリンチできるだろうか?
ましてやその人の家族や親や子供までを、殴り続けることが、どうして人間にできてしまうのだろうか。

こういったことが起きる度、本当に世の中に辟易としてしまう。
ただただ、しんどくなってしまう。
世の中に希望が持てなくなり、本当にこの世の中は終わっているなと。

もちろん、誹謗中傷は決して許されるべきではないし、とにかくはやく法整備を急いでほしいと思う。
それ相応の罰を受けるべきであると思う。

だが、見誤ってはならないのは、罰を与えるのは法であり、その権利を持っているのは被害者だけであるということだ。
世論として、自分自身がその問題について意見を述べるのはいい。
しかし、被害者に変わって加害者を罰するのは違う。

とても心苦しく、人によってはのたうち回るくらいつらいことだけれど、
我々には何もする権利はない。
だが、そこから学ぶことはできる。

なぜ、それが起きてしまったのか。
なぜ、止められなかったのか。
どうすれば止められたのか。
我々はどうしたらよかったのか。
そして、これからどうすべきなのか。

残念なことに、世界は一元的なものではない。
はっきりと、善悪をつけられるものばかりではないのが世の中だ。

例えば、オウム真理教にかつて入信していた人は全ての人が悪か。
例えば、池袋の事故で上級国民と散々なじられた飯塚さんについて、我々はどれほどのことを知っているだろうか。

あなたは知っているだろうか。
村上春樹のノンフィクション小説によると、オウム真理教の信者の多くは事件に全く関与しておらず、
それどころか脱会した後も元信者というだけで一般市民からの執拗な嫌がらせに耐え忍んでいた彼らのことを。

あなたは知っているだろうか。
飯塚被告はずっとブレーキとアクセルの踏み間違いを否定しており、
事実、プリウスのブレーキ故障による衝突事故が各地で何件も起こっていることを。

ひとつの視点からしかものを見ない事、
そしてその数が膨大となることは、
文字通りこの世の終わりだと思う。

前回の記事でも書いたが、私が宮崎駿の最新作品を『面白くない』と断じたツイートに対して
『批判するな』というリプライが来た。
これもまた、一元的なものの見方である。
そして往々にして、こういった人に多元的なものの見方を提案しても、
言葉すら通じない場合が多い。

りゅうちぇるの唱えていた『多様性のある社会』『やわらかな世界』は、
一体いつ実現するのだろう。
一元的な視点はいつも誰かを壊す。無残に。
それを目の当たりにするたび、何とも言えず、辛くなってしまう。

私には何ができるのだろうか。

それを考えながら、生きていこうと思う。

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