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プリティーリズム・オーロラドリームはなぜアニメ史に残る傑作なのか

理由1:プリズムジャンプによって掘り下げられる人間の心理

プリティーリズム・オーロラドリームとは、ファッション、ダンス、スケート、ミュージックを組み合わせたプリズムショーという架空の競技を題材にしたアニメ作品である。プリズムショーではプリズムジャンプという特殊なジャンプを飛ぶことが評価される。オーロラドリームにおいて「プリズムジャンプは心の飛躍」と説明されている(このフレーズはオーロラドリームのシリーズ構成と脚本を担当する赤尾でこ氏の発案である。赤尾でこ氏は次作のディアマイフューチャーでもシリーズ構成を担当していたが、監督の菱田正和氏と意見が食い違ったためにディアマイフューチャーの途中から坪田文氏がシリーズ構成と脚本のほとんどを担当することになったので、「プリズムジャンプは心の飛躍」が当て嵌まるのはオーロラドリームのみである)。

では、「プリズムジャンプは心の飛躍」とはどういう意味なのか。これを読み解くにあたって、スタニスラス・ドゥアンヌ『脳はこうして学ぶ 学習の神経科学と教育の未来』を参照したい。この本は豊富なエビデンスを用いて神経科学の見地から学習について書かれている。

著者のドゥアンヌは、効率的な学習をするうえで必須の四本柱の一つとして「注意」の機能を挙げ、次のように述べている。

哺乳類はすべて――もちろん霊長類も含めて――注意システムを持っている。しかし人間の注意は学習をさらに加速するユニークな特徴を示す。社会的な注意の共有だ。ホモ・サピエンスは、他のどの霊長類と比べても、注意と学習が社会的な合図に依存している。私はあなたがどこに注意しているかに注意し、私はあなたが教えてくれることから学習する。
乳幼児はごく早い時期から顔を見つめ、とくに人の目に注意を向ける。話しかけられたときに乳幼児が最初にとる反射的行動は、状況を探ることではなく、自分とやりとりする人物の視線を捉えることだ。赤ちゃんはアイコンタクトができて初めて、その大人が見ている対象の方を向く。この社会的な注意を共有する顕著な能力は、「共同注意」とも呼ばれ、子どもが何を学習するかを決める。
(中略)
ハンガリーの心理学者ゲルゲイ・チブラとジェルジ・ゲルゲイは、他の人に教え、他の人から学習するのはヒトという種に根本的な進化による適応だとみなす。ホモ・サピエンスは、脳に「天然の教育法」のための回路を備えている社会的動物で、他の人が教えてくれようとしていることに注意するようになると、その回路が起動するのだと言う。私たちの地球全体での成功は、少なくともその一部は、注意を他者と共有できる能力という、進化を経た特徴のおかげだ。私たちが学習する情報のほとんどは、自分の個人的経験よりも他者に教わったことだ。こうして人類の集合的な文化は、個人が一人で発見できることをはるかに超えて上昇できる。
224-225

これはオーロラドリームに見事に当てはまっている。

第1話で春音あいらは、父親から「お前はドジなんだから」と言われ、自分自身でも「私すごい運動音痴なんです」と言って、スケート技能が必要なプリズムショーは自分とは無関係なものだと思っていた。しかし、滝川純に連れられてプリズムショーを行うことになり、プリズムスターの衣装を渡され、「服の声を聞くんだ」と言われたことで、あいらはプリズムスターの衣装を身にまとった自分の姿に注意を向ける。それによって「運動音痴の春音あいら」という事前の自己の予測から、純が注意を向ける「プリズムスターの春音あいら」という新たな自己に注意が向き、初めてのプリズムジャンプを成功させている。

第2話で天宮りずむは、伝説的なプリズムジャンプであるオーロラライジングの唯一の成功者の娘という生まれから、「私、絶対プリズムジャンプを飛ばなきゃいけないの、オーロラライジングを」と言って、ダンスの練習しか行わず、服は動きやすい服ばかりを着てファッションには興味を持っていなかった。しかし、あいらから服をコーディネートされ、「明るく元気なイメージのりずむちゃんには、やっぱりミニが似合うよね」と言われたことで、りずむは似合う服を身にまとった自分の姿に注意を向ける。それによって「生まれからオーロラライジングを飛ぶことを宿命づけられている天宮りずむ」という事前の自己の予測から、あいらが注意を向ける「明るく元気でミニが似合う天宮りずむ」という新たな自己に注意が向き、初めてのプリズムジャンプを成功させている。

いずれも共通しているのは、新しいプリズムジャンプは飛ぼうと意図して飛べるのではなく、他者が注意を向ける自己に注意を向けることで新たな自己を発見して新たなプリズムジャンプを飛べるようになっているということだ。プリズムジャンプを飛べなくなる描写は、第7話のりずむ、第37話のあいら、全部で2回あるが、いずれも他者を拒絶して以前の服装に戻ってしまったり、自信を失い他者と出会う以前の自己の予測に戻ってしまったことが原因となっている。一度飛んだプリズムジャンプは、飛んだ時に発見した自己を忘れなければ意図して飛べる。

つまり、「プリズムジャンプは心の飛躍」とは、他者の視線の先にある自己に注意を向けることで、それまでの自己から新しい自己に予測が更新されることなのである。オーロラドリームのキャッチコピーは「なりたい自分にプリズムジャンプ」であるが、当時の番組情報では「新しい自分にプリズムジャンプ」とも記載されている。

天宮りずむ「きっと昔のあたしだったらこんなアイディア思いつかなかったよ。コーリングスと会って、純さんや社長と話して、あいらとショーをやってきたから、自分一人だけじゃなくて、みんながいる毎日って面白いなって思ったから、このコーデができたんだと思う
プリティーリズム・オーロラドリーム 第11話
春音あいら「私は、何の取り得もない、ドジで引っ込み思案な女の子だった。でも、プリズムショーに出会ってから、沢山素敵な人に出会えた。りずむちゃん、ショウさん、ヒビキさん、ワタルさん、阿世知さん、純さん、ラビチたちも。そしてパパ、ママ、いつき、うる、える、私はみんなのおかげで、こんなに素晴らしい舞台に立たせてもらっている
プリティーリズム・オーロラドリーム 第12話 
高峰みおん「みおん、一人で何でも出来るって思ってました。でも違ったんです。スイッチがオンにならないというか、だけど、あいらとりずむといると、スイッチがオンになった。あいらとりずむのおかげで、みおん、変わることができたんです
プリティーリズム・オーロラドリーム 第28話

プリズムショーはファッションも不可欠な要素であり、心の飛躍にも服が重要なのだが、今まで着たことがなかった服を着ることで新たな自己を発見できることに意味がある。そしてそれには自己に注意を向ける他者の視線が重要なのだ。自分一人では気がつけなかった自分の可能性を他者が教えてくれるからだ。これは難しいことを言っているわけではなく、日常におけるコミュニケーションや認知の在り方そのものである。

二人の人間が顔をつき合わせているとき、コミュニケーションは一方的に進行するものではない。あなたの反応が私の次の反応を変えるからである。これがコミュニケーションの輪だ。だが同時に、あなたが次にいうことをモデル化によって予測しようとしているのは私だけではない。あなたも同様に私の考えを心の中でモデル化している。あなたは私が次にいうことを予測しようとする。さらに私の思う意味についてあなたが立てたモデルが、私がいいたいことをうまく予測できていないとわかれば、あなたはいう内容を変えていく。
(中略)
たとえ私の目的が自分の考えを伝えようとすることであっても、最終的に伝えられる考えは必ずあなたの色が加わったものなのだ。意味とは重力場のようなものだ。月は地球の重力によって周りを回るが、同時に地球の動きも月の存在に影響を受けている。
クリス・フリス『心をつくる―脳が生みだす心の世界』221-222
他者を理解するには、身体性の次元を含めて、他者との関係に巻き込まれることが必要である。言いかえると、他者に出会う以前と以後とでは、あるいは、他者を理解する以前と以後とでは、自己の側にも何らかの変化が生じているということである。私たちは、他者との出会いによって変えられてしまう存在であり、自己は、そのように柔軟な可変性を持つからこそ、他者を理解できる可能性を持っているのである。
これは、私たちの自己アイデンティティにとっても重大なことを意味している。他者と出会い、具体的な関係性を構築し、他者を理解することで、自己もまた出会い以前とは異なる姿に変えられている。そうだとすると、いま、ここにある私の姿は、私が今まで誰に出会い、誰に出会ってこなかったのか、また、私が誰を理解し、誰を理解してこなかったのか、という他者との出会いの軌跡を映し出しているのである。
田中彰吾『生きられた<私>をもとめて』217-218

服のデザインを細かく見ると、そのデザインの発祥当時から現代の服として作るうえで何を変えて何を変えなかったのか、そこからデザイナーの意図が読み取れる。当時と現代の人々のライフスタイルの変化もわかる。縫製やパターンにも合理性があり、服に詳しければ見るだけで様々な情報が伝わってくる。「服の声」とは不思議な力でも何でもなく、知識があれば誰にでも読み取れるのである。そして服をコーディネートやプリティーリメイクすることで、他者の意図に一方的に従うのではなく、他者の色が加わった新たな自分を発見できるのだ。

この服は着てもよい、あれもかまわない、あるいは全裸でも構わない、が、なにかしら着るのであれば、それは、集団内の他者の期待に同調するか違反するかというひとつの文化的選択になるのだ。
マイケル・トマセロ『思考の自然誌』146

プリズムジャンプは心象風景を表現しているのは間違いない。しかし、心象風景を表現するためだけの場合、プリズムショーを観衆に披露する意味がない。相撲やテニスのように二人以上いなければ行えない競技でもないのだから他者と競い合う意味もない。漫画表現でよくある美形の人物を華やかに魅せるために背景に花が描かれる演出のようなもので、プリズムジャンプが心象風景を華やかに魅せるための演出なら、それは視聴者にだけ伝わればいいので、プリズムショーは他の登場人物が誰も見ていない場所で行ってもいいわけだ。それどころかプリズムショーを実際には行わず、当人の心の中だけで起きていることでいいわけだ。わざわざ観衆に披露したり他者と競い合うのは、「そういう設定だから」というものでしかなくなってしまう。

確かにプリズムジャンプは画を華やかにするための手段という側面もあるものの、オーロラドリームはそれだけにはならなかった。心は他者との相互作用の産物だからだ。これは第50話が象徴的で、観客を笑顔にするためにプリズムショーを行ってきたあいらと、そのあいらのプリズムショーによって夢を得た観客はあいらを応援し、その応援を受けて再帰的にあいらは夢とは何かに気付くという描写にも見て取れるだろう。個人の心を無視して社会参加を義務付けるのではなく、社会を無視した個人の心という幻想に耽溺するでもなく、社会性と不可分な個人の心を描くことに成功している。プリズムショーが公共的でなければならないことの必然性と共に、人間の心理について深く掘り下げられた作品となったのである。

他の霊長類と異なり、ヒトはコミュニケーション行為を使って、他者に自分の思考を認識させようとする。さらにヒトのコミュニケーション始発者は、他者の視点を取得して相手のゴールや興味を見定め、そのおかげで助けになるようなことを知らせることができる。かたや他者の側もこの有用な情報を必要としているので、コミュニケーション始発者がゴールや興味を認識できるように、そして始発者が受け手の知識や期待を認識してコミュニケーション行為を理解しやすく組み立てられるように、最大限の援助をする。大型類人猿では見られないが、ヒトだけは、コミュニケーションにおいて協働し、自身の視点を他者が取得し、必要とあらば、他者が操作することさえできるようにするのだ。
(中略)
初期人類の、相手が自身を分かってくれているかどうかという関心が、コミュニケーション行為の理解可能性について相手が下すであろう評価を介しての社会的な自己モニタリングを導くことになった。
これらすべてを通じて認知の面で乗り越えなくてはならない大きな課題が、自身の視点を協働相手の視点と協調することだ。かくして初期人類は、強い協働性を生み出すべく取引と交換を行ううちに、インタラクション相手とのコミュニカティブな視点の取引と交換――そこには自身の視点もある程度再帰的に含まれる――をおこなうようになった。そしてこれが、ヒトの認知表象と推論に、あらたな柔軟性と力をもたらしたのだ。初期人類は、自身から見た世界だけでなく、同時に他者の視点からも世界を見ることができるようになった。そこには、相手の視点から見た自分の視点も含まれていたことだろう。初期人類には、大型類人猿的な「ここから」の眺めだけではなく、「ここから」と「そこから」が共在する眺めが備わったのだ。
マイケル・トマセロ『思考の自然誌』130-133

理由2:心の飛躍は本質的に副産物である

新しい自己を発見することで新しいプリズムジャンプを飛べるのだが、新しいプリズムジャンプそれ自体を求めれば、「新しいプリズムジャンプを求める自己」という事前の自己に固執してしまい、むしろ求めれば求めるほど新しい自己の発見は遠ざかることになる。

「あたしは絶対に飛べるようになって見せる!絶対に……」
「プリズムジャンプは心の飛躍。しかし、その頑なな心のままでは、オーロラライジングはおろか、プリズムジャンプを成功させることはできないぞ。何を怖がっている」
プリティーリズム・オーロラドリーム 第2話

例えば「笑い」とは、笑おうと思って笑えるわけではなく、思いがけないことが起きて不意に笑ってしまうものだろう。むしろ笑おうと思えば思うほど笑えなくなる。心の飛躍も同様に、意図することでは訪れない。オーロラドリームにおいて新しいプリズムジャンプは、他者との関係によって新たな自己を発見することで飛べるものであり、それは「そうなろう」と意図することでは得られず、副産物としてしか得られない本質的に副産物なのである。

不眠症は様々な方法で改善あるいは治療しうる。ここでの文脈に特別の関連性を持っている、一つの治療上のテクニックがある。セラピストは不眠症の患者に次のように言う。次の晩には、めまい、頭痛、のどの渇きといった不眠症のあらゆる徴候を、五分ごとに、努めて注意深くノートに取りなさい、と。そして、あなたが不眠症を克服するための様々な知恵にたどり着けるようになるためには、これは必要不可欠なのだと述べる。患者は、純粋にかつ従順に、教えられた通りの行動を取り、そして直ちに眠りに落ちる。かくして睡眠はやって来た。ただし副産物として――そしてまたこの文脈では、それは本質的に副産物である。というのもその効果は、セラピストが患者にこの指示のポイントを教えてしまっていたならば、台無しになっていただろうからである。
ヤン・エルスター『酸っぱい葡萄 合理性の転覆について』72

例えば、ドッキリ番組において、もしもターゲットにあらかじめドッキリだということを伝えて仕掛けると、ターゲットは意識してしまい、リアクションが不自然になって面白くなくなってしまうだろう。あるいは、ゲームの実況プレイの面白さ、とりわけホラーゲームの実況プレイなどは、実況者のリアクションにあるのではないか。リアクションが乏しくなる既プレイよりも、初見プレイの実況を望む人が多いだろう。さらにリアクションの良し悪しは、如何に演技ではなく素のリアクションに感じられるかで決まるのではないだろうか。わざとらしさを感じたり、面白いことを言おうとしていると感じられると、途端につまらなくなってしまうのではないだろうか。

ドッキリやゲームの実況プレイの主な面白さである素のリアクションは、当人が嘘企画やゲームをプレイするという他の行為の最中に不意に生じる副産物であり、かつ副産物としてしか得られない。素のリアクションを取ろうと意図すればするほどわざとらしくなって素のリアクションからは遠ざかることになる。心の飛躍もこれと同様で、意図して生じるのではなく、思いがけないサプライズやセレンディピティとして当人の意図しない方向から訪れるものであり、求めても得られないばかりか、求めれば求めるほど遠ざかるものである。これはオーロラドリーム第50話に象徴的な台詞がある。

春音あいら「今まで、夢が何なのかよくわからないまま、ただ一所懸命走り続けてきただけ。それがいつの間にか、みんなの夢になってるなんて。みんなの想い、受け取ったよ」
プリティーリズム・オーロラドリーム 第50話

オーロラドリームの第50話において、春音あいらは自身がみんなの夢になっていることを知るのだが、あいらはみんなの夢になろうとしたわけではない。観客を笑顔にするために努力してきたことの副産物として、みんなの夢の存在になっていたわけだ。春音あいらは春音あいらに「なろう」と意図してなったわけではないということである。

『酸っぱい葡萄』において著者のエルスターは、この本質的に副産物と似た思考形式として仏教の禅宗を例に挙げている。禅宗を題材にした坂口尚の漫画『あっかんベェ一休』において次のような台詞がある。

「悟りを得たいと鳴いていた私……執着心を断とうとして坐禅をし、悟りを得たいとそのことにまた執着していた私を何度も叩いてくださったのは老師様ではありませんか。今度は作家に なろう などと思えば再び自分を縛ります
坂口尚『あっかんベェ一休 上』467

「執着心を断ちたい」と思えば思うほど、それ自体が執着心になって執着心を断てないように、新しさとは事前の自分では思いも寄らないことであり、新しいプリズムジャンプを飛ぼうと意図しても、それは事前の自分から容易に想像できる陳腐な新しさでしかなく、新しさを求めれば求めるほど古い自分の発想に縛られ、新しさからは遠ざかることになるということだ。

「自分がナンバーワンだと思ったらそこまでだよ。ナンバーワンはその先にあるんだ」
プリティーリズム・オーロラドリーム 第29話

しかし、オーロラドリームは「なりたい自分にプリズムジャンプ」という意図することでプリズムジャンプを飛べるかのようなキャッチコピーがある。もちろん、一度飛んだプリズムジャンプは意図しても飛べるのだが、新しいプリズムジャンプを飛ぶための条件はキャッチコピーに反するような意図しては不可能なものとして描写した意義は何なのか。もっとも、この条件自体が作り手が意図したものではないかもしれないが。考えられるのは、「なりたい」と望むことには危険性もあるということを伝えているのではないだろうか。

理由3:なりたい自分と適応的選好形成の問題を提示している

オーロラドリームは「なりたい自分」をキャッチコピーにしながらも、新しいプリズムジャンプを望むことでは飛べなかったり、過去に何かを望んだことで大切なものを失って後悔している大人たちの描写などから、「なりたい」と望むことを無条件に美化していない。夢には危険性もあるからだ。何が危険なのかと言うと、元々自覚している望みは、自律的な望みとは限らないことだ。自律とは自分の考えを押し通すことではなく、複数の様々な選択肢の中から熟慮することである。自分の望みだと思っていることでも、複数の選択肢の中から選べる状態で熟慮した望みでなければ、自分で決めたことではなく流されているだけでしかない。

適応的選好形成(adaptive preference formation)とは、欲望を実現可能性に沿うよう調整することである――それは計画的性格形成者による、好みに沿った熟慮の上ではなく、非意識的に生じた因果プロセスである。この適応の背後には、どうしたって満たすことのできない欲望を抱くことから感じる緊張や欲求不満(frustration)を減らそうという衝動が生じている。
ヤン・エルスター『酸っぱい葡萄 合理性の転覆について』38

例えば、オーロラドリームにおいて神崎そなたは、オーロラライジングというプリズムジャンプを飛んだ時、家族の姿が映し出される。オーロラライジングは自分の本当に大切なものが映し出されるジャンプなのだが、そなたは家族を一年間放置してプリズムショーを優先したことで、今更どうしたって家族から許しは得られないと諦め、家族を求める自分を否定し、自分はオーロラライジングを完成させられなかったと思い込み、オーロラライジングの完成を求めて余計に泥沼にはまってしまう。

「私がオーロラの中で見たものは、それまで生きてきた中で一番幸せな光景だった。でも、確かにオーロラは光輝いたかもしれない。けど、それはただの幻。現実は、オーロラライジングを完成できなかったうえに、命に代わる大切なものを長い間心の中から消し去ってしまった。このままじゃ死んでも死にきれない」
プリティーリズム・オーロラドリーム 第49話

あるいは天宮りずむは、唯一オーロラライジングを飛んだ神崎そなたの娘であることから、自身もオーロラライジングを飛ぶことを求めていたが、春音あいらと出会う以前はいくら求めても通常のプリズムジャンプすら飛べなかった。第46話で仲間との絆を捨ててまでオーロラライジングを飛ぶことを求めるが、あいらとの対決によって寂しさを抱える自分を発見する。どうしたって寂しさは満たされないと諦め、寂しさを抱える自分を否定してオーロラライジングを求めていたが、仲間と出会ったことで寂しさは満たされていたことを思い出すことで、仲間との絆を捨ててまでオーロラライジングを飛ぶことを求める「なりたい自分」から解放される。

この神崎そなたと天宮りずむのどちらにも言えるのは、ある望みはどうしたって満たされないという諦めから、その望みを抱く自分を否定し、プリズムジャンプを飛びたいという別の望み(しかも副産物としてしか得られないもの)に非意識的にすり替えられているのだ。オーロラドリーム第46話に至るまでりずむは寂しさを抱える自分自身を認められなかったように、本人も無自覚に別の望みが自分の望みだと思い込んでいるのである。

実際にオーロラドリームの全51話の3分の2以上の話数においても、オーロラライジングというプリズムジャンプは何一つ物語に関わっていない。4クール目まではオーロラライジングは天宮りずむにとっての表向きの目標でしかなく、その目標の中身は別に何でもよいのだ。何にでも置き換え可能ないわゆるマクガフィンでしかなかった。それどころか、大半のエピソードは阿世知社長が取ってきた仕事をこなしたり、阿世知社長の指示で大会に出場することで話は進むので、表向きの目標なんて持たせる必要すらない。これはよくある「物語は登場人物に明示的な目標を持たせなければならない」という陳腐な作劇論をメタ的に嘲笑っているとも取れる。最初から持たされた望みを熟慮せずに進むことの危険性を描いているのだ。

例えば、子どもの頃、値段が高いおもちゃが欲しくても買ってもらえず、妥協して安価のおもちゃを買ってこちらの方が欲しかったものだと思い込もうとしたことがなかっただろうか。本当に安価のおもちゃの方が好みなのかもしれないが、自分自身の望みだと思っていても、本命が手に入らないことの諦めから形成された望みかもしれない。限定品や売り切れとなって手に入らなかった商品を否定している悪評レビューを探して自分を慰めるように、人は手に入らないものをいつまでも欲することに耐えられない。その不満足感から自分自身を守るために、手が届かない望みは否定して手が届きそうな望みを抱くのだ。

ある文化においては不当な扱いとされていることが、他の文化においては名誉であり本人が望んでいたとしても、安易に「価値観の違い」「文化の違い」「宗教の違い」で済ませられない理由がここにある。もちろん、異なる価値観や文化や宗教を尊重するのは大事だが、自分では望まないことを望んでいる人がいても、それは自分または相手が他の選択肢を選べないだけかもしれない。

どのような欲望でも平等であるが、他の選択肢も取れる状態なら望まないような望みだとしても、自分自身の欲望だと言えるのだろうか。自分では本当に望んでいることだと思っていても、熟慮したうえでの望みなのではなく、それしか叶わない環境から形成された望みかもしれない。もちろん、欲望には際限がないので時には諦めも必要だ。たとえ資産が10兆円あったとしても、100兆円を望むなら不満足感を抱き続けることになるように、叶わない望みや行き過ぎた望みにいつまでも執着して不満足感を抱き続けるよりも、現状で満足感を得られる望みを抱いた方が生きやすくなることはあるだろう。しかし、虐待やDVを受けても諦めて疑問を持たなくなったり、長時間労働であったり、望んで自分自身を傷つけることにもなりうる。

人間は間違う生き物だ。資産100兆円がない現状で満足する望みなどは、間違いだったと思えばすぐさま「やっぱり100兆円欲しい」と再度望みを変更することが可能だが、自分自身を傷つけるような現状で満足する望みなどには、身体に取り返しのつかないダメージを負ってしまう可能性、最悪の場合には死ぬ可能性がある。そうなればこの望みは間違いだったと思っても後の祭り、もはや望みを変更することは不可能だ。このような望みは、それを望むことのリスクを知った上で、本当に望むのかを慎重に検討する必要がある。オーロラドリームは一つの夢に突き進むことを無条件に美化せず、一つの夢を妄信することの危険性を新しいプリズムジャンプを飛ぶための条件によって示唆している。

つまり、オーロラドリームにおいて新しいプリズムジャンプは、新しいプリズムジャンプを望むことで飛べるようになるわけではなく、他者との関係によって新しい自己を発見したことの副産物として新しいプリズムジャンプを飛べるのである。これは元々自覚している自己の望みを叶えようとする努力では絶対に飛べないのだ。なぜなら元々自覚している自己の望みは、複数の選択肢の中から選べる状態で熟慮した望みとは限らず、それしか選ぶことが許されなかったことで望みになったかもしれないからだ。元々自覚している「なりたい自分」は、他の選択肢も選べるなら「なりたい自分」ではなくなるようなものかもしれないということだ。

オーロラドリームは夢に向かうことの危険性を描いているが、完全に無意味だと描いているわけではない。オーロラライジングは求めることでは飛べないが、りずむはオーロラライジングを求めたことの副産物として寂しさを満たす大切な友人を得られ、大切なものを得たことの副産物としてオーロラライジングも飛べたとなっている。これは阿世知今日子にも言えることだが、オーロラライジングを求めた過程で他の大切なものを得ている。夢に向かうことは危険なこともあるが、別の形で報われて無駄にはならないということだ。

天宮りずむ「あたしには今支えてくれる仲間がたっくさんいるから。逆に今はこんな運命にありがとうって言いたい」
プリティーリズム・オーロラドリーム 第48話

禅宗を題材にした坂口尚の漫画『あっかんベェ一休』において次のような主人公の自問自答がある。

「私は……とらわれていたんだ。母のこと……私の生い立ちのこと……。自分は帝の子であり、本来なら御所に暮らす身分だと……今の自分は仮の姿にすぎないという思いをどこかに持ち続けていたんだ。出家したにもかかわらず……」
「母の不幸を悲しみ、己の不幸を嘆いてどこが悪い!人間として自然の感情じゃないかッ」
「本当の意味で仏門に飛び込んではいなかったのだ!」
「そういう思いを捨てろというのか?それでは母がかわいそうだ!!ただ一人の肉親の私が母の悲しみを受け止めてあげなければ……母が、母が……あまりにも憐れだ……。出家とは母への思いまでも捨てることなのか!?」
「待ってくれ、違うッ、そうじゃない」
(中略)
「私は……無理なことを願っていたんだ……私は……ようやくそれに気づいた。この花にいつまでも美しく咲いていてほしいと望むようなものだ……。時を止めることはできない……戻すことも……」
「だからといって悲しむなというのか!?薄情者ッ」
「そうじゃない、そうじゃないんだ……!」
「お前は変わってしまったッ、お前は宗純じゃない!!周建じゃない千菊丸じゃない!!」
「そうだ、千菊丸だった、周建だった、宗純だった、そして今、一休宗純なんだ!私は気づいたんだ、そのことも気づいた!!」
「違う違う!!名が変わろうがお前は私だ!私は生まれた時からずーっと私なんだ!!」
「今変わってしまったといったじゃないか!」
「そ、それは……」
何もかも変わるんだ。何もかも移り変わる。人の世も、私も……
坂口尚『あっかんベェ一休 上』429-435

人間は自分自身の意識でも捉えきれないほどに変わり続けている。ガラクタを入力すればガラクタが出力される(Garbage in,Garbage out)ように、制限された環境からは制限された「なりたい自分」が出力される。事前の環境において実現可能な夢しか抱けないため、以前から抱いている夢は他の環境を知れば優先順位が低くなる夢かもしれない。このような一つの夢に固執することの危険性を示唆するために、新しいプリズムジャンプは元々ある夢に向かうことでは飛べず、新しい夢が生じた時にしか飛べないという予測できないものとして設定したのではないだろうか。 そして新しい夢を増やすには環境を変えることだが、他者との出会いによっても新しい夢を増やすことができる。

そもそもわれわれはどのようなところに注意を向けるのだろうか。主に、視覚的注意の研究を通じて文脈に合わないようなものがあったときや、他とは著しく異なる特徴をもっているもののほか、突然何らかの変化が生じた部分などに素早く注意を向けることが知られている。これは、もう少し抽象的に表すとどんなところに注意を向けていると言えるだろうか。
抽象的に言うと、生起確率が小さいと思われていた事象が生じた場合に、素早くその部分に注意を向けると指摘できるかもしれない。これは、情報科学の分野ではシャノンのサプライズと呼ばれ、このような考えを新規性検出仮説と言う。また、人間を含むすべての動物は、環境に対してサプライズが小さくなるように学習する(つまり生起確率を学習する)ようになっている。(中略)
しかし最近、学習効果によって信念が時間とともに変化するダイナミックな状況においては、注意の現象が別の観点でよりよく理解できることが明らかにされつつある。それは、注意を払ったときに自己の信念(belief)の書き換え度合いが大きくなるところに注意を向けると考えた方がよいということである。一般に、何らかのデータを観測した前後での知識の変化、あるいは信念の変化の度合いが大きい場合、ベイズサプライズが大きいと言う。このベイズのサプライズが大きいところに注意を向けると考えた方がよいようである。
乾敏郎『感情とはそもそも何なのか 現代科学で読み解く感情のしくみと障害』63-64

理由4:他者との競争を通して適切になりたい自分を選べる

オーロラドリーム第1話において春音あいらは、父親から「お前はドジなんだから」と言われ、自分自身でも「私すごい運動音痴なんです」と言っている。もちろん、プリズムショーを始めた後も頻繁に転倒したり、ダンスの上達が遅く人一倍努力を必要としたりするので、このような印象にはある程度の事実も含まれているだろうが、挑戦する前から自分のキャラクターを決め付けて挑戦することを諦めれば、他に持っている可能性を閉じ込めてしまうことになるかもしれない。

過去の経験が、その子のメタ認知回路の奥深くに単純な(しかし間違った)法則を刻み込んでしまう。自分にはこれこれの科目(算数、読み方、歴史等々)を学習することはできないという法則だ。そのような失望は珍しくない。女子の多くが数学は自分向きではないと確信するし、貧困地域出身の子は、学校は自分たちの敵で、教師は自分の未来に何の役にも立たないと信じるようになる。そのようなメタ認知的判断が不幸なのは、その判断が学生の意欲を奪い、好奇心のつぼみを摘み取るからだ。
それを解決する方法は、こうした子に対し、自信の裏打ちを一段一段高めてやることだ。与えられる問題がその子のレベルに合ってさえいれば、ちゃんと学習する力があることも、学習そのものに報酬があることも示してやろう。好奇心の理論からすると、子どもは学校で進みすぎても遅れすぎてもやる気をなくすのだから、その子の今のレベルに注意深く合わせた刺激的な問題を提供し、学習欲を回復することが欠かせない。まず、子どもが新しいことを学習する喜びを再発見し、それから徐々に、メタ認知系が自分には学習できることを学習し、それによって好奇心が戻ってくる。
スタニスラス・ドゥアンヌ『脳はこうして学ぶ 学習の神経科学と教育の未来』255-256

少なくとも「あいらは運動音痴」と予測する事前の環境の中では、あいらは自分がプリズムスターになるという予測をできなかっただろう。一つの環境に留まり続けていては、その環境内で定着している自己像をフィードバックと再生産し続け、自分が持っている可能性に気付くことができない。オーロラドリーム第1話において、事前の環境の外にいる、すなわち事前の自己からは予測外の予測をする他者である滝川純に注意が向くことで、滝川純が注意を向ける「プリズムスターの春音あいら」に注意が向き、あいらは新たな自己を発見できたのだ。

「お恥ずかしい話ですが、まさかあいらにそんな才能があるなんて、夢にも思いませんでした。だってそうだろ?あのドジでノロマなあいらの才能に、俺たちは気付いていたか?毎日顔合わせてるのに、面白いもんだな。素晴らしいことじゃないか、あいらのことをこんなに期待してくれる人がいるなんて」
プリティーリズム・オーロラドリーム 第44話

たくさんの「なりたい自分」を発見し、複数の中から選べる状態で熟慮してこそ適切に「なりたい自分」を選んでいると言える。そして「なりたい自分」を増やすには、事前の自分が知らなかった情報を持つ他者が必要なのだ。

春音あいら「私の夢、少しずつ変わってきてるみたいなの。前は夢って、どうせ叶わないんだって思ってた。将来はお家のケーキ屋さんを継ぐんだろうなって思ってた。でも、プリズムショーに出会って、りずむちゃんやみおんちゃん、ショウさんやプリティートップのみんなに出会えて、段々わかってきた気がする。最初はどんなことでもいいの。小さな夢とか目標を持って、それが頑張ってできた時に自信になる。そしたらその自信で、それよりももう少し大きな夢を持って、頑張ってみようと思える。そうすると、どんどんたくさん夢が増えてきて、まるで宝探しみたいにワクワクして、心の中が新しい宝物でいっぱいになる。毎日がきらきら輝いて見えるの。勿論楽しいことばっかりじゃなくて、辛いことも悲しいこともあったりするけど、それまでの手に入れた心の中の宝物が勇気になって、頑張らなきゃって思える。今日が駄目でもまた明日、明日が駄目でも明後日、きっと乗り越えられるって信じて頑張れる。私は今、私達のプリズムショーを見てくれる沢山の人達を笑顔にしたり、元気づけたい。それがたった今、この瞬間の私の夢。それを一所懸命やれば、きっとまた新しい夢が見えてくると思う」
プリティーリズム・オーロラドリーム 第36話

自分で自分をくすぐっても予測通りのくすぐり方しかできないため笑えないように、自分一人では事前の自分が知っていることから予測できる「なりたい自分」しか予測できないため、新しい「なりたい自分」は増えない。自分には知り得ない意識経験を持っていると信じられる他者に注意が向くことで、他者が注意を向けるそれまで知らなかった自己の姿に注意が向き、他の選択肢があることを学習できる。実際の他者の意識経験がどうであるかは兎も角として、他者に対してこのような信念があることに意味がある。

脳の中では、それぞれの感覚が提供する、複数の証拠の源泉を使った、知覚推論を通して表象が生じる。推論に社会的次元を加えることも出来る。そうすると、個人のあいだでは、コミュニケーションを取り合う各個人が提供する、複数の証拠の源泉を使って、推論が生じることになる。
(中略)
現在の意識経験を内観するとき、脳のもつ外界についての最良の推定物に私たちはアクセスするが、その際、外界についてのその推論に対して確信の感覚が得られる。何が内観されているかは他者からは見えず、一人称的な視点に依存している。そして当の出来事についての他者の報告には影響されない。つまり、意識は私秘的であり、それゆえ、相互作用する複数の心のあいだの最適な推論において社会的な役割を演じることができるのだ。裏を返せば、仮に意識経験がはっきりとあらわになっていたなら、つまり、それが私秘的なものでなく公共的なものであったなら、他の個人の報告に過度に影響を与えてしまい、私たち自身の報告を他者の報告と統合することから利益を得られなかっただろう。
ヤコブ・ホーヴィ『予測する心』407-410

例えば、ファミチキが欲しくても(ファミチキください)と脳内で思うだけでは店員に伝わらないだろう。あるいは、お腹がすいている「感じ」とか、美味しい「感じ」などのような意識経験は「私」特有のもので、そのような「感じ」を抱いていることを他者が理解するにはコミュニケーションを取らなければならないし、情報を完全に伝達できるわけではない。仮に何の手続きもなく「私」が(ファミチキください)と思っただけで要望や食欲が店員と同期するなら、店員もファミチキが欲しい状態になってしまい、ファミチキをくれる人がいなくなるはずだ。逆に店員が(ファミチキを売りたい)と思っただけで「私」と同期するなら、「私」もファミチキを売りたい状態になってしまい、ファミチキを買う人はいなくなるはずだ。

つまり、個々人の得た情報が別のファイルとして保存されずに、常に既存のファイルに上書き保存されてしまう。これでは複数の情報を比較検討することができない。個々人の持つ情報が別々に保存されることで、お金を払ってファミチキを欲するお客の「私」と、ファミチキを払ってお金を欲する店員の「あなた」という分業が可能なのであり、そしてコミュニケーションを取ることで「私たち」のこととして複数の情報を統合して理解できるからこそ、大多数が米一粒すら作れないのに毎日ホカホカごはんを食べられる社会が成り立っているのだろう。

自分一人では情報に間違いがあっても気がつけない。独自の意識経験を持っていると信じられる他者と共同することで、各自が発見した複数の情報を統合して理解できるため、間違いを減らせる。もちろん、一方の提供する情報を無条件に支持し、もう一方の提供する情報を軽視したりするなどの雑なコミュニケーションを取るなら誤りに流されることはあるが。役割分担をして各自が発見した証拠を持ち寄ることで、自分一人では発見できなかった豊かな情報を得られ、一面的ではなく、より適切に「なりたい自分」の予測が可能になるのだ。

病院で精密検査を受けなければ自分一人では自分の病気に気付けないことがあるように、自分自身の自己理解であっても、あくまで予測であり間違える可能性があるのだ。もちろん、他者の瞳に映る自己も予測であり間違える可能性がある。しかし、他者と共同し、お互いの認識にズレがあるたびに検証して修正することで、いつかは真実に辿り着ける。生きている間には辿り着けないこともあるかもしれない。お互いに同調を求めあう馴れ合いになれば間違いが強化されるかもしれない。しかし、自分が持っている情報と他者が提供する自分がまだ知らなかった情報を適切に競争させれば、少なくとも一人で考えるよりも間違うリスクを減らすことができるはずだ。今の自己理解を過信し他者を拒絶すれば、それこそが自己理解から遠ざかってしまう。現在に至るまでの無数の人類の間違いと修正があったからこそ、豊かな自己理解を持てるのである。オーロラドリームは、他者を拒絶して理解の拡張を現時点で閉ざしてしまうことは否定しているのだ。

私の見解では、理論と実践(ハスランガーの言葉では、稼働的概念と顕在的概念)の整合性は正しさを保証しない。つまり、理論が人々の実践と整合的だとしても、理論は記述的に偽であるかもしれないということである。その根本的理由は、現在と過去の実践が、理論を評価するために私たちが持つことのできるすべての証拠ではないことにある。科学哲学者が非常によく知っているように、理論は存在するデータによって過小決定されているのである。理論と存在するデータとがどんなにぴったり適合していようと、理論がまだ考慮されていないデータを説明できない可能性は常にある。
フランチェスコ・グァラ『制度とは何か──社会科学のための制度論』263

自分が考える自分は、事前の環境から観測したデータを証拠にした狭い箱庭の中でのみ通用する理論の一つでしかない。自分自身のことであっても、自分一人で発見できることには限界がある。例えば、アニメを一つの作品しか観たことがない人が、その唯一観た作品を「アニメの中で一番好き」と言っても、他の作品を考慮していないにすぎないだろう。他の作品も観た上で判断しなければ、自分自身の好みが正確にはわからないはずだ。いくつもの作品を観た上でも最初に観た作品が一番好きということはありうるが、それしか知らない場合の判断とそれ以外も知っている場合の判断とでは、結論は同じでも後者の方が自分の好みとして正確だろう。

あるいは、パソコンもスマホもなかった時代には、それらがないことを不幸に感じていた人はいないが、現代に生きる我々がそれらを使えない状況に陥れば不幸に感じるだろう。スマホを手にした多くの人々がもはやガラケーには戻れないように、知らなかったことを知ることで判断を改めることはしばしばある。自己理解も同様に、自分自身が理解している自分のキャラクターは、事前の自分の知識にはない自分が考慮されていない。新たな他者と出会うたびに「自分が知らなかった自分」を新たに知り、どちらの自分が正しいのかを適切に競争することで正確な自己理解に近づけるのだ。

子どもに任せてしまうと、ある領域を支配する抽象的な規則を発見するのに大いに苦労し、学習できるとしてもその量はずっと少なくなる。それは意外なことだろうか。子どもが外部からの導きがなくても、人類が気づくのに何世紀もかかったことを、たかだか何時間で再発見するなどと、どうすれば信じられるだろう。
スタニスラス・ドゥアンヌ『脳はこうして学ぶ 学習の神経科学と教育の未来』241

これは子どもに限ったことではなく、大人でも誰にでも言えることだ。会話も本もインターネットにも頼らず、自分一人で発見できることなど僅かであろう。

理由5:対照的なキャラクターによって成長を補い合っている

オーロラドリームにおいて、春音あいらは他者との関係性の象徴であるファッションを好きなものの、最初は「なりたい自分」がわからなかった。わからないがゆえにまごついてしまい、新しい自己を発見することができなかった。対照的に天宮りずむは最初から「なりたい自分」をわかっていた。わかっているがゆえに自己の夢を過信してしまい、他者との関係性の象徴であるファッションを軽視し、これもまた新しい自己を発見することができなかった。知らなすぎていると思って萎縮している場合も、知りすぎていると思って過信している場合も、どちらも成長に向かうことはできないのだ。

ウィリアム・ジェームズやジャン・ピアジェやドナルド・ヘッブといった大心理学者が、好奇心を支える心の働き方がどういうものかについて推測してきた。こうした心理学者によると、好奇心は、子どもが世界を理解してそのモデルを構築しようという意欲が直接に表れたものだ。好奇心は、私たちの脳がすでに知っていることと、これから知りたくなること――潜在的な学習領域――とのギャップを検出したときに必ず生じる。私たちはいつ何どきでも、自分がとりうる様々な動作から、この知識のギャップを埋めて有益な情報が得られそうなものを選ぶ。
(中略)
この理論は、好奇心が驚きの度合いや新しさとは正比例せず、正規曲線のようになる理由を説明する。意外でない事物に対しては好奇心は抱かない。何回も見たことがある事物は退屈だ。しかし新しすぎたりびっくりしすぎたりする事物、つまりまごつくばかりで構造を見逃してしまうような事物にも惹かれない――複雑すぎて引いてしまうのだ。単純すぎることによる退屈と複雑すぎることによる拒否の中間で、私たちの好奇心が自然に新しくて入りやすい領域へ導く。しかしこの魅力は変化し続ける。習熟すると、かつては魅力的に見えた対象もその訴求力を失い、好奇心は新しい課題に向け直される。
スタニスラス・ドゥアンヌ『脳はこうして学ぶ 学習の神経科学と教育の未来』250-251

先述したように、一つの夢に固執して突き進むことは真実を見落とすことがあるが、行動できなければそれもまた真実に近づくことはできない。りずむがあいらを奮起させ、あいらがりずむの行動のフォローをする。オーロラドリームは、このような対照的なタイプの二人を配置し、お互いがお互いを補い合う関係によって、あいらのように立ち止まって思慮することの利点と欠点、りずむのようにとりあえず一歩踏み出して行動することの利点と欠点を描き、成長にはどちらか一方だけではなく、どちらも必要だということを描いている。

知覚推論は、驚きに対するきつい上限をもたらすが、知覚推論それ自体が驚きを減らすわけではない。逆に、行為は私たちを驚きのない状態におくことで驚きを減らすことができるが、行為それ自体は外界についての良い仮説を選ばせるわけではない(というのも、仮説は行為の最中では同じままだからだ)。信念に基づいて行為することは信念の正しさを保証しないが、予測誤差を最小化することで信念の不確実性を減らすことができる。
適合方向が異なることは、予測誤差最小化に適切に従事するために私たちは知覚推論と行為推論に相補的な仕方で従事する必要がある、ということを示唆する。驚きに関するきつい上限を生み出して、行為推論が健全な出発点に立つためには、知覚推論が必要だ。このことが明らかに重要だ。というのも、外界がどのようであるかに関して不正確な把握に基づいて行為推論に従事することが、長期的に驚きのない状態に生物を導くというのはありそうにないからだ。銃弾を避けたければ、同じ場所にじっとするよりもいつ弾丸が発射されるのかを正確に知っている方が良い。
行為だけでは十分でない。行為が新たな予測誤差をもたらすことはよくある。というのも、外界は複雑で不確実な場だからだ。したがって、行為推論を中断して、驚きに対する上限を再調整できるように知覚推論に戻って、それから再び行動を起こすということには十分見返りがある。不意に銃弾に襲われたら、あなたは少し立ち止まって、それが発射された時点に関するモデルを更新して、それから行動戦略を考え直すかもしれない。知覚だけでも十分ではない。長期的には、生成モデルの正しさだけを目標とするのは能率的ではない。サプライザルが低い状態に身を置くことは叶わないだろう。
したがって、知覚推論と行為推論の間を行き来するべきだ。推論活動をこのように行き来するのは、私たちが何者であり何を行うのかに関する非常に基礎的な要素であるように私は思える。
ヤコブ・ホーヴィ『予測する心』147-148

さらには、りずむ一人ではあいらを奮起させられなかったり、あいら一人ではりずむをフォローしきれない時に、支えられる仲間として高峰みおんも加わる。

高峰みおん「ずっと考えてた。どうして私たち三人なんだろうって。MARsの活動を通してわかったの。みおんが右に倒れそうになったらりずむが支えてくれる。左に倒れそうになったらあいらが支えてくれる。誰かが倒れそうになっても横にいる仲間が支えてくれる。MARsは三角形じゃない、まんまるの輪よ。三人は輪になって一つになる。それがトリオの力、MARsの意味よ」
プリティーリズム・オーロラドリーム 第37話

他者との共同であっても、お互いに調子を合わせるだけの馴れ合いでは意味がない。せっかく役割分担して情報収集が可能なことの価値が薄れる。オーロラドリームは他者との共同が馴れ合いになってしまう危険性も描いている。第21話では、あいらはコーディネートが得意でダンスが不得意、りずむはダンスが得意でコーディネートが不得意なのだが、りずむはあいらのダンスに合わせてレベルを落とし、あいらはりずむの提案したコーディネートをそのまま採用する。お互いが気遣ってレベルを落としたショーを行ったために敗北してしまう。

高峰みおん「隣にいるお互いを見つめあってしまって、前に進むことを忘れてしまった。私たちは、同じ方向を、同じように前を見ながら進まなくちゃいけなかったの」
プリティーリズム・オーロラドリーム 第21話

この教訓を得て、例えば第21話以前の第7話では、あいらはりずむから罵声を浴びせられると泣いて逃げ帰ってしまっていたが、第21話以後の第46話では、あいらはりずむから罵声を浴びせられても逃げずに対決するようになっている。逃げたり迎合して一時的な満足感を得るのではなく、時にはぶつかりあわなければ真実には向かわない。

適正な育児は、短期的な子どもの苦痛に正しく対処することを求める。それどころか、ときに子どもに短期的な苦痛を引き起こすことがある。「夕食時にケーキを食べてはいけない」「入れ墨をしてはならない」「平日の夜にパーティに行ってはならない」など、子どもの願望を拒否しなければならない場合がある。また、ある程度規律を課すこともある。そのとき、規律を課された子どもが、不快感を覚えることはまず間違いないはずだ。長期的に見て子どもの役に立つことを犠牲にしてでも、子どもの当面の満足感を高めようとする衝動に焦点を置く共感は、育児の妨げとなる。育児の課題は、親自身が自分の利己心を克服しなければならないことにあるとよく言われる。しかし、共感に基づく関心、すなわち周囲の人々の当面の苦痛を緩和しようとする強い欲求を克服しなければならないという別の課題がある。
ポール・ブルーム『反共感論』122-123

オーロラドリームはこのように、敗北や失敗があっても意味もなく敗北や失敗させるのではなく、必ずそこから教訓を得て成長に繋がっている。それに加えて、敗北や失敗を殊更強調しない。例えば、あいらは度々転倒するが、「ぎゃふん」と言ってコミカルに描写している。罰を与えたり失敗を強調するのは、成長に向かうどころか子どもの意欲を挫くことにすらなる。二者択一の問題であれば罰を与えたり失敗の強調が正しい答えに導くことがあるとはいえ、複雑な問題であればその機能すらない。

私たちのニューロンが絶えず交換している誤差信号を、どうすれば最大限に利用できるだろう。子どもでも大人でも、効果的に学習するには、その環境(親であれ学校であれ大学であれ……ビデオゲームでさえ)が素早く正確なフィードバックを与えなければならない。生徒が自分がどこでつまずいているか、どうすればよかったのかを正確に教えてくれる詳細な誤りフィードバックを受け取った方が、学習は速く、楽になる。教師は、誤りに関する早急で正確なフィードバックを提供することによって、生徒が自分で修正するのに使える情報を相当に豊かにすることができる。人工知能では、この種の「教師あり」学習と呼ばれる学習が最も効果的となる。それによって機械は素早く失敗の元を特定し、自己修正できるからだ。
しかし、そのような誤りフィードバックは罰とは関係ないことを理解しておかなければならない。私たちは人口ニューラルネットワークを罰したりしない。マシンが間違えた反応をどうするか教えるだけだ。誤りの性質と兆候について少しずつ教える。できるだけ多くの情報が得られるような信号をマシンに与える。
(中略)
質問にありうる答えがAかBの二つしかなく、生徒が間違ってAを選んだら、その生徒に正解はBだよと教えるのは、「間違ってるよ」というのとまったく同じことだ。同じ理屈で、五分五分の二者択一では、「正しい」と言われても「間違い」と言われても学習の量は厳密に同じになるはずだ。ただ、子どもは完璧な論理学者ではないことを忘れないようにしよう。子どもにとって、言われたことから「Aを選んで間違っていたら、正解はBしかない」と推論するのは容易ではないが、「自分は間違った」と言われたのだということは難なくつかむ。実際、この実験が行われると、成人は報酬と罰からぴったり同じ量の情報を引き出せるが、思春期ではそうはならない。失敗よりも成功の方から学習することがずっと多い。だから、この辛い部分はなくしてやり、できるだけ中立的で情報に富むフィードバックを与えてやろう。誤りフィードバックは罰と混同すべきではない。
スタニスラス・ドゥアンヌ『脳はこうして学ぶ 学習の神経科学と教育の未来』272-274

理由6:オーロラライジングドリームと世界

オーロラドリームは真実に進むことを推奨しているし、そのために他者の存在を重要視している。しかし、「真実は素晴らしいから素晴らしい」「他者は素晴らしいから素晴らしい」と根拠なく押し付けているわけではない。どのような利益があるのかを提示しないまま、あるいは避けられない不利益を隠蔽したまま、素晴らしいという前提のもと話を進めれば、それは押し付けがましい説教になってしまうのだが、オーロラドリームは利益を得られたという過程がある。また、避けられない不利益とも向き合っている。

オーロラドリームの登場人物である神崎そなた曰く、心の中を真っ白にしたままでいれば失うものは何もない。そう言ってそなたは真実から目を背け続ける。真実と幸福はトレードオフの関係にあるのかもしれない。真実を追求するために理解の拡張などと言って様々な可能性があることを知れば余計な希望を持つ。希望なんて持つからそれが叶わなかった時に絶望が生じる。それなら最初から何も持たなければいい。真実を知ろうとせず、自分の思い込みを妄信して心に波風を立たせず暮らす方が幸せである。だが、オーロラドリームは「真実に進んだことで得られた幸福」を描いている。 

他者と出会い、他者と競争し、他者を理解することで新しい自己の夢を発見し、新しいプリズムジャンプを飛べるようになる。たくさん自己の夢が増えることで、適切に「なりたい自分」を選べる。真実へと一歩進んだことの証としてプリズムジャンプがある。自分一人では発見できなかった情報を知ることによって上昇していく、まさに人類の文化の軌跡を描いた作品なのだ。このように考えれば、最後に飛ぶプリズムジャンプであるオーロラライジングドリームが「世界」を象徴するのも必然である。 

教育を通じて、私たちは他者に、これまでの何万代もの人類の最善の考えを伝える。私たちが学習するすべての言葉、すべての概念の一つ一つは、私たちの祖先が私たちに伝えるささやかな成果だ。言語がなければ、文化の伝達がなければ、共同体の教育がなければ、私たちは誰も、独力では、現に今私たちの物理的精神的能力を拡張しているあらゆる道具を発見できなかっただろう。教育と文化は私たち一人一人を、人類の叡智の広大な連鎖を引き継ぐ者にする。
スタニスラス・ドゥアンヌ『脳はこうして学ぶ 学習の神経科学と教育の未来』231

他者に導かれ、他者に見立ててもらった衣装を着たり、大人から想いと共に衣装を引き継ぎ、他者との関係の中でプリズムジャンプは拡張される。自己は他者からの光を受けることで輝けるのだ。オーロラドリームの挿入歌であるDream goes onの歌詞に「 I change for you あなたと 想いを分け合い You don't give it up あなたも 勇気つなぐ使命あるはず」とある。オーロラドリームという作品は、誰もが他者とのつながりの中で生きていることを思い出させる作品なのである。

プリズムってそれだけじゃ輝かない、光を受けてこそ輝くんですよね。だから、これを着こなした私がリンクで輝けるかどうか見ててください」
プリティーリズム・オーロラドリーム 第10話
「これが……あいらのオーロラライジング?」
違います。この輝きはみんなの心、そして社長の夢
プリティーリズム・オーロラドリーム 第50話

春音あいらの飛んだオーロラライジングドリームの空間では、阿世知今日子や神崎そなたといった夢破れた過去のプリズムスターたちも、再起できるような夢の翼を発現させている。まだリンクに上がれない未来のプリズムスターの子どもたちも、一歩踏み出すための夢の翼を発現させている。これは現状の他者をそのままでいいと肯定しているわけではないだろう。そのままでいいなどと肯定して放任するのは、弱者にとっては搾取の温存にしかならない。

「なりたい自分」とは、現在目の前にいる他者だけではなく、時を超えたすべての人とのつながりの中にある。目先の利益のために現在の他者にのみ迎合した「なりたい自分」だけでは、未来の他者を犠牲にすることになり、将来的には不利益を被って後悔するかもしれない。過去、現在、未来を想定し、普遍妥当する「なりたい自分」を考慮してこそ、適切に「なりたい自分」を選んでいると言える。

「もう一つ忘れてはならぬのは花が咲くのは見物人と演者の心が一つになった時ということだ」
「見物人との波長があえばいいのですね!つまり稽古を積めば手をかえ品をかえいつでも衆人の人気を得られると!」
「バカモノーーーッ」
坂口尚『あっかんベェ一休 上』481
「世阿弥様からの手紙には……この三間四方は"果てなき世界だ"と…………」
「フン!伯父貴が乗り移ったかッ」 
「"私は己を捨てた"とも……」 
「己を捨てただと!?信じられん!あれほど自分の態を自分の猿楽をと突っ走り、ついには猿楽の伝統さえも踏み外した人が己を捨てただと!?ワハハハ……見物人からも誰からもそっぽを向かれとうとうくたびれ果てて」
「芸の鬼でした」
「では"芸の鬼"が泣くぞ!演者が己を捨ててどうする?」
(中略)
「"果てなき世界"とは……もしかして……そうだ!この虚空と三間四方とがつながったということかも知れない。きっと世阿弥様は望んだ通り時を超えたのだ!」
「何を何を世迷い言を!老いぼれ世阿弥は見物人からも誰からも見捨てられたのだァーーーッ、ワハハハ……」
「世阿弥様……この心に残るひびきは……百年、いや千年先の世の人々の心にも届くような気がします……
坂口尚『あっかんベェ一休 下』500-514
個人はもはや、自身の視点を特定の他者ひとりのそれと対比して――ここから、あそこからの眺め――見るのではない。むしろ、自身の視点を、ある意味では、ものごとについての、誰かの、そしてみんなの包括的視点と対比したのだ。客観的に事実で、真で、いかなる視点から見てもまったく正しい――どこでもないところからの視点のない眺めだ。
かくして、道徳的観点から見るのであれば、協力は、他者のまたは集団の利害を尊重して自分自身の利害をある意味で消し去ることを常に伴っており、また、認知的視点からは、協力的思考は、他者のまたは集団のより「客観的」な視点を尊重して自分自身の視点をある意味で消し去ることを常に伴っている(Piaget, 1928)。このように、協力的コミュニケーションにおいては、わたしは常に我が受け手の視点を冷遇しなくてはならず、協力的論争においては、他者の論拠や主張が自分のものよりも――わたしたちの合理性の規範的基準(合意済みの客観的現実を含む)にのっとった物差しに照らして――よいものであるならば、受け入れねばならず、つまりは、自身のそれを棄てなくてはならない。
マイケル・トマセロ『思考の自然誌』209-210
はるか昔には私たちの先祖たちもまた孤独だった。かれらには物理世界のモデルは構築できても、それを他者と共有できなかった。この段階では各人がもつモデルに対して真実というものはどうでもよかった。頭の中にあるモデルが物理世界を真に反映しているかは問題とならなかった。重要なのはそのモデルが次に起きることを予測できるかどうかだけだった。しかし私たちが物理世界のモデルを共有できるようになると、他の人のモデルは自分と微妙に違っていることを発見する。中には世界の一面について明らかに優れたモデルをもっている人たち、すなわち専門家がいることに気づく。多くの人々のモデルを集めれば、一個人が生み出すどんなモデルよりも優れたものが構築可能である。やがてこの世界に関する知識はもはや個人の人生から出てきたものではなくなる。知識は世代を越えて継承されるようになるのだ。
クリス・フリス『心をつくる―脳が生みだす心の世界』230

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