「頭がいい」について考えてみる

「あの人って頭いいよね」 

人はそういう時、その人の何を見てそう言うんだろう、と不思議に思います。


頭いいね、って、東大生なら誰かにはいわれたことがあるんじゃないかって思う。かく言うわたしも。

中学生、高校生くらいまでは、

そうか、私は周りより頭がいいのか、くらいに思ってた。


でも大学に入学して、もろもろ暗記したりレポートを書いたりすればどうにかなる前期課程を経て、後期課程に入って数ヶ月。

まず、前々から思っていたことで確信したのは、

頭がいい=勉強ができる、ではないということ。


これって当たり前に聞こえるかもしれないけど、意外と大事なことを言っていると思ってます。

むしろ考えるべきなのは、勉強ができる、つまり成績がとれるのはなぜか、の方。

たとえば"筋道を立てる力"があったり、"暗記力"があったり、そうやって脳の中で突出して優れている部分が、うまく成績取得活動に生きた場合、結果として勉強ができることになる。

「頭がいいこと」と「勉強ができること」に相関があるのは、そういう理由だと思う。


地頭が良くても、必ずしも勉強ができるとは限らないのは、いくつかの観点でしか人を評価していないテストでは、当たり前。

東大以外の大学にも、頭がいいな、と感じずにはいられないような、尊敬に値する人をたくさん知ってます。これが裏付け。


私の言われていた「頭いいね」は、主に結果を見られていたパターン


少し話変わって、4月からは、必修の国際法の授業が始まりました。

ここで私は、ちょっとしたショックを味わった。

法学の勉強って、人に読ませることを想定しているとは思えない難解な文の数々が論理的に構成されたものを読みます。

さらに、それらに対する前提知識がない今の状態で、その場で論文を批判する、ってことをしました。

私はここで、あ、だめだ、と思った。
法学は、私の脳に欠けているもの、もしくは脳の優れていない部分を必要とする学問、な、気がした。

たとえば、論理的思考、抽象的な思考、見方の柔軟性、とか。
いわゆる、「頭がいい」ってこれらのことを言うんじゃないかって言うものたち。


受けていたのは少人数のクラスで、ハイレベルなコミュニティではあるんだけど、良いアウトプットを出している人ももちろんいた。

お恥ずかしいことに、このときたぶん初めて、自分の頭が良くない、と、実感を伴って思いました。

もちろん、自分の思考がふわふわしてるな、とか、言語化せずに物事を考えることが苦手だな、とか、思ったことは何度もあったけど、周りと比べたわけでも、それが具体的に持つ意味も、考えたことなかった。



でも一方で、すごい希望をもらった話もあって。

私の尊敬する、行動力や人脈が人並みはずれてて、誰もに好かれ、いるだけで場が温まるようなカリスマ性を持ってる、ある先輩と最近お話ししました。

「俺は頭よくないよ。英語のスコアたりなくて、海外インターンシップ諦めたくらいだもん。東大の英語は、出題者だいたいこんな問題出すんじゃね?っていうカンで乗り切ってきた感じ。俺は、センスでだけでなんとか生きてる、と思ってもらって良いよ
って言ってた。

確かにそうなのかもしれない。
その先輩の頭が良くないと言ってるわけじゃなくて。
でも何よりまず人一倍センスを持っていて、その活かし方を知っている人なんだと思った。何に関しても。

センス、って、なんのことを指してるのかは曖昧だけど、それも人が見たら頭の良さの一要素としてに映るのかもしれない。


考えてみると、東大には、そうやって何か一つ、人と比べて突出した能力がある人が多い。もしくはなんでも満遍なくこなす人


私を良く知る人は、

"思考力が全てではないし、思考力において劣ることを普段の議論で感じることはないよ。それ以外に行動力、目的思考、期待値を超えようとするスタンス、真面目さ、マルチタスク力、計画性等々優れたところがたくさんある。"

と言ってくれました。

みんながみんな、ごりごりのロジカルシンカーである必要はないし、生まれ持った能力を、いいところも悪いところも受け入れるのがいちばんなのかな、って。


もはや、頭がいいとは何か、に明確な答えは与えられないけれど、一言では言い表せないいろんなタイプがいることは間違いない。

足りない脳の能力は強化すべくトレーニングしつつ、自分の誇れるところを伸ばし活かしていきたいと思いました。