自分を知ってもらう、愛してもらう。

固定記事にもプロフィールにもあるように、私は料理研究家のリュウジさんが好きです。
私がリュウジさんが好きだと言った時、「それってリュウジを好きな自分を好きなだけでしょう?」と他者から言われたらどう思うか。

まあ、いい気持ちにはならないですね。

自分の好きがニセモノかのように思われる(思わされる)のが嫌だし、言ってくる相手から見下されている気もします。
「好き」の責任の所在なんてどこだっていいわけだし、そもそもそれをハッキリさせたい「外野の声」は他者を責めるものでしかない。そういうのが現代の生きづらさを象る要因の一つだとも思う。

「私は〇〇が好きです。無しには生きていけない」という人がいたら、その人自身を愛おしいなと思う。たとえそれがODや自傷であれ、それがその人を構成する要素の一つとなっているのなら、それを周りが「知る」ことがその人を「助ける」ことにもつながる(ここで言う「知る」とは「共感」であって「無闇な肯定」ではない)。

「〇〇が好き」なら好きってSNSで言えばいい。大声で叫べばいい。
「〇〇が好きな自分が好き」を後ろめたく感じたしまうなら、それは周りがあなたに対しての「知る気持ち」が足りないだけだから。

だから私たちは「繋がり」を求めているんだ。

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