メンタル不調の書かれ方|いくら想像しても、経験しないとわからないことがある。『食べることと出すこと』/頭木弘樹

 筆者は20歳のときに「赤い便」を出した。最初は単なる下痢だと思い込もうとしたが、次第に症状はひどくなった。トイレの回数は数え切れず、そのたびに血の下痢。漏らしてしまって失感情症状態にもなる。なんと26キロも体重が減ったという。

 病名は「潰瘍性大腸炎」。国が指定している難病だ。とはいえ、人によって症状の出方はかなり違いがあり、服薬しながら社会生活を送れている人もいる。筆者の場合はかなり重いほうで、絶食をともなう入院生活を13年間繰り返したあと、手術を受けてひとまずの寛解に至る。

かなり厳格な食事制限を続けるうちに、食べ物全般に対する強い警戒心が生じてくる。そしてそれが外の世界全体への警戒心につながっていく。

そうすると、その警戒心は、だんだんと他のことにまで広がっていく。
外から内に入れる、すべてのものに。
空気が汚れているのも気になってくる、肌につけるものも気になってくる。
さらに、外の世界全体への警戒心も高まっていく。
危険が強く意識され、受け入れがたくなってくる。
つまり、食べづらさは、生きづらさにつながっていくのだ。

 現実世界との折り合いが難しくなり、著者は引きこもる。なかなか治らない難病の原因を、周囲からは心のせいにされることもあった。

身体の病気に、身体からアプローチしてなかなか治らないとき、残っているのは心しかない。だから、心から直そうということになる。難病は治らない病気なので、そういう次第で、とくに「心から治せ」ということを言われやすい。身体からのアプローチで治らないのは、医学の限界であり、当人に責任はないが、心からのアプローチで治らない場合は、これは当人の「努力が足りない」「性格に問題がある」ということになってくる。

 しかし、手術を受けて強い薬の使用量が減り、感染症の心配が少なくなってくると潔癖症も治っていった。また、同じ病気の人の症状が重くなったとき、みるみる性格が変わっていくのを目の当たりにしたという。

そもそも性格というのは、かなり身体によってできているのではないだろうか? 病気によって身体が変化することで性格が変わるのも、そもそも性格が身体によってできているからこそだろう。心のほうが身体をコントロールしていると思われがちだが、むしろ身体のほうが心をコントロールしているように思われる。

 ちなみに著者は現在、闘病生活で出合って救いとなったカフカの研究者として活躍している。この本の奥付にはこのように書かれている。「漏らすせつなさを描いた文学ばかりを集めた、『排泄文学』というアンソロジーをいつか出せたらと思っています。」

こころに残った一文

病気の当人は、健康な人たちの想像の及ばない体験をしているのに、周囲の健康な人たちが、それを自分たちの想像の範囲で推測して、わかっているつもりで対応したとしたら、悲惨なことになってしまう。では、どうしたらいいのか?(中略)大切なのはこれだと思う。「想像が及ばないことがあるだろう」という理解。ソクラテスの「無知の知」ではないが、「いくら想像しても、経験していない自分にはわからないことがある」というふうに、みんなが思ってくれれば、たいへんなちがいだ。

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