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『紫煙草子』⑦

前回

 
 


紫煙草子(しえんぞうし)

第1話:鬼

 
 
「いやぁ、一仕事終えた後の煙草は美味いね」
昨日降り続いていた雨は夜のうちに止み、春の暖かな日差しが、煙草屋と喫茶店を兼ねた「Here and There」を照らしている。
立江たつえさんはカウンターの前、いつもの定位置に腰掛けて、いつもと同じように煙草を吸っている。
「セブンスター。このタール14mgのどっしりとした吸いごたえ、何物にも代え難い。チョコレートにもコーヒーにも合うし、酒の口直しにもなる。『七つ星』の名に相応しいよ。まあ随分と値上がりしたのが痛いけどね」
「すごい独り言ですね。そんなに語られても、俺が煙草嫌いなのは変わりませんよ」
 
ちょうど喫茶利用のお客が帰ったところで、立江さんは暇なのだろう。俺は適当にあしらってから、そういえばと思い出して問う。
「あの河端さんのクソ旦那、どうしたんです? まさか精神崩壊したせいで罪が軽くなって、みたいなことにならないですよね?」
「まさか」
立江さんは言う。
「そこまで驚かしちゃいないさ。せいぜい……『煙』に対して恐怖心を植え付けたくらい、だよ」
ニヤリ。立江さんはあの、人の悪い笑みを浮かべる。
「知ってるかい泡沫うたかた。人間ってのは思う以上に、『煙』に取り巻かれて暮らしているんだ。煙草を吸えば紫煙が昇る。料理が出れば湯気が昇る。風呂に入れば蒸気が昇る。そんなふうに日常生活で『煙』を見るたびに、あの男は『妻子の幽霊』のことを思い出して、そして怯えながら生きていくのさ」
ククク、と笑い声。
「精神崩壊なんてさせるもんか。生きてるうちは人間の法律で、死んでからは地獄の法律で、きっちり裁かせてもらうとしよう」
俺は河端さんの旦那に対し、心の中で合掌した。
 
 
ともあれ。暇なのは俺も同じだ。
俺は店の奥の戸棚から本を引っ張り出してくると、店内の一席に陣取った。もちろんいつでも来客に対応できるよう、エプロンは着けたままで。
本の題名は『獄卒ごくそつ入門! ~天国から地獄までこれ一冊~』。沖名おきなさんの……知り合いの古本屋の隅で見付けた、ふざけたタイトルながら内容は充実している本だ。立江さんの言葉には時々難しい専門用語が挟まるので、俺はその都度この本で意味を調べているのだ。当人に質問したって教えてくれないから、というのもある。
 
ちなみに明言しておくが、俺は獄卒ではない。
そんなことを口走ろうものなら、立江さんの手で俺の腹に風穴が開けられる。
 
 
『生成』(なまなり)
能面のうめん、あるいは鬼女の段階の一種。角を少し生やし、髪を乱した女性の面。生きながら鬼と化していった女性だが、鬼としての性質がまだ熟し切っていない状態でもある。
能では、女性の嫉妬や恨みや怒りの感情の烈度により能面を使い分ける。
泥眼でいがん生成なまなり般若はんにゃじゃ真蛇しんじゃの順に、嫉妬や憤怒の度合いは強くなる。
泥眼とは、女性の感情が昂り始め、白目と歯が金色に変化した状態のこと。妖気が漂い、徐々に人間を超越しつつある。だが神霊の女性を表現するのにも使われるため、必ずしも悪い側面ばかりではない。
般若は「中成(ちゅうなり/なかなり)」とも呼ばれ、鬼化がさらに進んだ状態である。くわっと狂暴に開かれた口元と対照的に、眉根は悲しげにひそめられ、女性の情の深みを表している。
蛇と真蛇は「本成(ほんなり)」とも呼ばれる、鬼化が完全に進行した状態。耳は取れ、口は裂け、舌が覗き、髪はほとんど無くなる。もはや人間に戻るすべは無い。
 
 
成程確かにこうして調べてみると、河端さんの奥さんのあの状態は、まさに「生成」と分類するに相応しかったわけである。
夫ともども地獄に落ちてもいいと思えるほど、一瞬でも子どものことを忘れてしまうほど、怨みつらみの高まった状態。俺にはその激情は到底理解できない。それとも憎悪を抱いて死んだ母親なら、みんな理解し共感できるものなのだろうか?
尋ねる術は無い。誰にも、どこにも。
彼女らはもう彼岸に渡ってしまったのだから。
 
「…………」
 
俺はふと、ちらりと立江さんを見やる。
立江さんはそんな俺の視線に気付くことなく、セブンなんとかという煙草を堪能しているようだ。
俺は再び本に目を落とし、別の項目を調べる。
備忘録と同じ、そこだけ開き癖が付いているページだ。
 
 
『奪衣婆』(だつえば)
あの世へ渡る手前の三途さんずかわのほとりで、死者の衣服を剥ぎ取る鬼婆。脱衣婆、脱衣鬼、葬頭河婆そうづかば正塚しょうづかばばとも呼ばれる。
長い髪を振り乱し、胸元をはだけ、厳しい表情で死者に臨む。衣服が無い者は皮膚を剝がされる、六文銭ろくもんせんを渡せば三途の川を行かせてくれる、など様々な異説もある。
その隣にいる、剥ぎ取った衣服を樹に掛ける懸衣翁けんえおうとは違い、奪衣婆は時代と共に存在感を増した。閻魔大王えんまだいおうの妻であるという説、地獄の鬼よりも体が大きく立場も上であるという説、懸衣翁の仕事も含めて奪衣婆が請け負っているという説などが例である。
また江戸時代には民間信仰の対象とされ、奪衣婆の像や堂が建立された。日本民俗学の祖である柳田國男やなぎたくにおは、日本に古くからあった姥神うばがみ信仰が奪衣婆と結び付いて生まれた結果だとしている。信仰対象である奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の百日咳ひゃくにちぜきに効き目があるといわれた。
 
 
今日に至るまで、何度も何度も、何度も何度も見返した項目だ。
 
馬場立江さん。
その正体は、奪衣婆。
 
 
つまりここは真の意味で、あの世とこの世の分かれ目なのだ。
先の河端さんのように、ここへは時々誘い込まれるように「お客」がやって来る。そして彼ら彼女らは決まって、あの世とこの世に関わる問題を抱えているのだ。
立江さんは横柄に、そして誇り高く、お客を迎え続ける。
俺は傍でそれを補佐し、立江さんの命令通り働き続ける。
 
 
いつまで?
いつか俺が地獄の最下部・無間地獄むけんじごくに落ちるその日まで。
 
 
「立江さん」
俺は死者だ。地獄に落とされるべき罪人でありながら、その価値すら無いと判断された存在だ。
「コーヒー、淹れましょうか?」
そして立江さんはこの瞬間も俺を罰している。
生前の俺の恋人……凪沙なぎさの姿と声をとることで。
「ふん。いい心掛けじゃないか」
立江さんはようやくしっかり俺を見て、ニッと笑った。
「特別美味いのを寄越しな、泡沫栞」
 
 
 
 
第1話:鬼  ~完~
 
 


 
 
note創作大賞2023応募作
計7回・約38,000字
これにて閉廷
 
 

次回

『紫煙草子』⑧へ続く
→いつかここにリンクを貼ります。

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