見出し画像

『紫煙草子』⑥

前回




紫煙草子(しえんぞうし)

第1話:鬼



「クソ……クソがっ!」
河端嘉輝かわばたよしきは、自分以外誰もいないファミリーマンションの部屋に帰ってくるや否や、暴言と共にネクタイを床に叩き付けた。
「死ね! どいつもこいつもくたばれ!」
彼はつい先程まで、松原まつばら県警や市立病院の医師と共に、妻と子の遺体を確認していたのだ。


今日の正午頃、嘉輝は松原駅近くのビジネスホテルから、酒を飲んで一時帰宅した。妻の恭子きょうこに文句を言ってやるために。
妻から「拓斗たくとの咳が収まるまで」とホテル生活を打診された時は、彼女には珍しく気が利くと思った。自分に懐かない、おどおどとして男らしくない拓斗には全く情は湧かなかったし、その拓斗から何かうつされるなどもってのほかだったからである。

――俺は会社でも責任ある立場なんだ。
  休む羽目になったらみな困るだろう?

ところが数日にわたってホテルを拠点に生活するうち、ふと疑問が湧いた。
俺は何をしてるんだ、と。
何故俺の方が家を離れなきゃいけないんだ、と。
その疑問は考えれば考えるほど、到底受け入れがたい違和感や理不尽となって、嘉輝の頭を席巻し、やがてそれは噴き出すような怒りとなって爆発した。

――思い知らせてやる!

近くの店で酒を買い込み、ホテルの部屋で一気にあおった。それからフロントに呼ばせたタクシーに乗り込み、憤然としつつこのマンションに戻ってきたのである。
妻は怯えた。その卑屈な態度が嘉輝を一層苛立たせた。
そこへ耳に入る、拓斗の咳。

――全ての元凶め!!

黙らせるために口を塞ぎ、喉を絞め落とした。こうすれば脳に酸素が行かなくなって気絶すると、確かどこかで聞いたことがある。
蹴り飛ばした妻も、首を絞めた子どもも、静かになった。
そこでようやく僅かに溜飲が下がった。
嘉輝はマンション前で待たせていたタクシーに再度乗り込み、ホテルに戻らせた。荷物を回収してチェックアウトして、堂々と凱旋帰宅するためである。


待っていたのは想定外の光景だった。
妻と子どもがいなくなっていたのである。


まさか家出か? どちらかの実家に逃げ込まれたか? 一瞬焦ったが、しかしそれにしては家の中の物は何も持ち出されていないようだ。それどころか妻の財布やスマートフォンは置きっぱなしである。となると、何かを買いに出たわけでも、まして自分と同じようにタクシーでどこかへ行ったわけでもなさそうだ。スマホを見ても特に通知は入っていない、つまり誰かに連絡を取ったわけでもない。
ならば「拓斗を連れて衝動的に家を飛び出した」と考えるのが普通である。玄関の扉の鍵が開きっぱなしだったことからも、その計画の無さが見てとれる。

――どこまで馬鹿なんだ、アイツは。

そのまま思い立って、警察に連絡した。「家に帰ったら妻と息子が消えていて……」と切羽詰まった声色を出すのには苦労したが、警察は信じ込んだようだった。酒でたどたどしくなっている口調が、意外に雰囲気を作ったのかもしれない。
警察に連絡したのは当てつけだ。お前のせいでこんな大事おおごとになったんだぞ、と妻に罪悪感を抱かせてやりたかった。
そう。ただそれだけの目的だったのに。


警察側からはすぐに折り返しの連絡があった。しかしその内容は、これまた嘉輝が予想だにしないものだった。
「奥様とお子様らしきご遺体が、川で発見されました」と。


冷たいリノリウムの床。
冷たく硬いベッドの上。
間違いなく、ベッドに横たえられている遺体は妻と子のものだった。
そもそも警察には、「橋の下に誰か引っ掛かっている」と別の通報が入っていたらしいのだ。そこへ嘉輝からの連絡が入って、外見的特徴の一致から、その水死体が河端恭子と河端拓斗のものかもしれないと同定されるに至った。
「……!」
発見が早かったおかげだろう、水死体と聞いて連想するほどの状態には、遺体はなっていなかった。多少皮膚がふやけて白くなっている程度である。
しかし警察も医師も嘉輝も、注目したのはそこではない。不審と思われたのは、子どもの……拓斗の首元の、手の形に浮かび上がった赤紫色の鬱血痕である。
「妻は……、」
震える声で、嘉輝は言った。

「妻と子どもは、無理心中したんですか・・・・・・・・・・?」

「詳しいことはまだ分かりません」
固い口調で、警察の1人が答える。
「事件・事故・自殺、その全ての観点からお調べさせていただきます。旦那様からも、お辛いところですがお話をお聞かせ願います」


「クソ! 何で、どうしてこんなことに!」
そして夜。警察からしばし話を聞かれ、続きは明日またと言われ、ようやく嘉輝は自宅に帰ってこられたのである。
苛立っていた。そしてそれ以上に、とんでもなく焦っていた。
「どうしたらいいんだ……」
ガリガリと後頭部を掻く手が止まらない。
気付いていた。拓斗の首に浮かんだあの鬱血痕は、間違いなく自分がつけたそれであると。遺体は司法解剖に回されたので、その手形が妻のものより大きいことも、川で死ぬより前につけられたことも、きっと判明してしまうだろう。

焦っていた。
妻と子はもしや、自分のせいで死んだとされるのでは? と。

「あああああクソ! 最後まで迷惑かけやがって! いっそ沖まで流されて、そのまま魚の餌にでもなってりゃよかったのに!」
自分を落ち着けるために大声を出しながら、誰もいない部屋の中を右往左往する。
「どうしてこんなことになったんだよ!」
本当に本当に、何故こうなったのだろう。
何が、どこから、どうして、間違ったのだろう。
そうだ。拓斗が風邪・・をひいたのが悪いんだ。妻がきちんと育児をして、病気の予防を心掛けていれば、こんなことにはならなかった。
そうだ。拓斗がもっと強い子でなかったのが悪いんだ。妻に似てなよなよして、俺の顔色ばかり窺う子どもだった。男の子なら、イタズラして怒られて殴られて強くなるものだろう。
そうだ。妻への教育が足りなかったのが悪いんだ。
そうだ。妻と結婚したのが悪いんだ。
そうだ。妻と出会ったのが悪いんだ。


そうだ。合コンに参加したこと、そこから全ての間違いが始まったんだ。
職場の1年上の先輩達に誘われて、嫌々参加した合コンだった。予想した通り、やって来たのは頭がカラッポの馬鹿女ばかり。男を品定めしているのも、必死でそれを隠して取り繕っているのも、鳥肌が立つくらい気持ち悪かった。
そんな中で唯一目についたのが、恭子だった。
おしとやかで物静かで、いかにも品があるように見えた。だから気に入って、仲を深めたいと思えたのだ。
大誤算だった。
こればかりは自分を恨む。
結婚して共に暮らすようになってからは、妻の全てが短所として目に映った。おしとやかで物静かで品があると思われたのは全て、引っ込み思案で根暗で弱々しい性質の裏返しだったわけである。

だから教育した。
自分の理想の家族を作るために。
妻を人並みの人間にしてやるために。


「なんで、何でなんでなんでなんだよ」
自分はただ・・・・・
家族のために頑張っただけなのに・・・・・・・・・・・・・・・


「っ、落ち着け、とにかく考えるんだ」
呟く。そして嘉輝は自分をさらに落ち着かせるべく、懐から煙草を取り出し、ふーっと吹かした。
火が付いた紙巻きの先から青白い煙が立ち昇る。それはまるで先刻見た、死んだ妻と子の肌の色のようだ。
空気中に広がっていく煙。
広がって広がって広がって広がって……、

そして、消えない。

「…………あ?」
紫煙は消えなかった。消えないどころか一層その青白い色を濃くして、明らかな指向性をもって・・・・・・・・・・・嘉輝の体にまとわりついてきた。
反射的に吸いかけの煙草を灰皿に置き、両手で煙を払いのける。しかし煙は依然として彼の体の周囲から離れず、やがてその首元へと向かってきた。
「わあっ!? あ、がぐぅっ!」
押し出された空気によって、喉からおかしな声がもれた。
煙は嘉輝の喉を絞め上げていた。薄く厚く何重にも層となって絡み付き、一部は鼻や口から侵入し、呼吸を困難にしていた。振り払おうにも半ば実体の無い煙なので、手は空を切るばかり。息ができないせいか、それとも煙が目に入ったせいか、彼の視界はギュッと痛んで涙でにじむ。

――苦しい! 苦しい!
  誰か……助けてくれ!


「ぱぱ」


声がした。
一瞬、呼吸の苦しみも目の痛みも忘れた。
「……ぇ、ぁ…………?」
声が聞こえた方向に、首と視点を無理矢理合わせる。
灰皿の上で未だ燃え続ける煙草。そこから立ち昇った煙が、部屋の片隅の布団の上で、ぼんやりと人影を形作っていた。
それは病気の子どもが寝込んでいた布団。
「ぱぱ」
けたけたけた、と子どもならではの高い笑い声が聞こえた。


目の前の煙が、拓斗の姿をとっていた。


「…………!!」
叫んだ。いや叫んだつもりだったが、絞め上げられた喉からもれたのは、単なる弱々しい空気の塊だった。
「ぱぁあああぁぁあ、ぱああ」
煙でできた『拓斗』の口がぐにゃりと歪み、上下左右に裂け広がる。そこから発せられる、間延びしたカセットテープのような低い声。
「ぎっ……ひ……!」
苦しい呼吸のまま、床を這いずって逃げる。
幽霊なんて非科学的なものは信じていなかったが、ことここに限っては信じるしかない。首を絞められた拓斗が、今度は嘉輝の首を絞めるべく帰ってきたのだ。
逃げろ。逃げろ。逃げろ。
這いずって逃げる。腰が抜けたまま逃げる。
と、その背中が何かにぶつかった。

「あら嘉輝さんどこ行くの」

頭上から降ってくる、別の声。
「…………!」
びくん、と弾かれたように顔を上げる。
『拓斗』と同じく煙でできた『恭子』が、ぐわっと身を乗り出して嘉輝のことを覗き込んでいた。
「こぉの子と、あそんであげ、てよ」
「ぱぱ、ぱあぁぁぁぱ」
『二人』が、嬉しそうに楽しそうに笑いながら近付いてくる。
同時に首元の煙が、今まで以上にギュッと絞まった。


――…………!!

――……………………!!


――……………………たす…………け……。



次回


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?