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『紫煙草子』①

あらすじ

この店の名前は「Here and There」。表では煙草販売を、裏では小喫茶をやっています。店主は馬場立江ばばたつえさん。お客が来るのを待ちながら、いつも煙草を吹かしています。俺は泡沫栞うたかたしおり、ここの店員です。それにしても立江さん、今日はよく降りますね。これじゃあ商売上がったりですね……っと、前言撤回します。どうやらお客様のようですよ。今回は、お母さんとお子さんでしょうか?



紫煙草子(しえんぞうし)

第1話:鬼



雨が降っている。
ざあざあ、ざあざあ、雨が降っている。


今日は朝からずっとこうだ。土砂降りではないけれど小雨でもない。どうにか残っていた桜の花も、これで散ってしまうだろう。とうとう今年もちゃんと花見に行けなかった。
向こうから見知らぬ人が歩いてくる。足早に、私達の横を通り過ぎる。深く傘をかざしていたから、頭からずぶ濡れの私達のことも見えていないようだった。
まるで自分が透明人間にでもなったかのような感覚。
 
 
「まま」
 
 
拓斗たくとに声を掛けられ、私はハッと我に返る。
「あ……ああ、ごめんね。えっと」
「?」
ぼんやりした意識をハッキリさせるべく、頭を振る。そんな間抜けな私を拓斗は不思議そうに見上げて、それから服の裾を持ち上げてみせた。彼のお気に入りの鮮やかな黄色いシャツは、雨水を吸いに吸った結果、暗鬱な色に変わりつつあった。
そうだ。雨宿りできるところを探さないと。
着の身着のまま、傘どころか財布も持たずに出てきてしまった。私はともかく、このままだと拓斗がまた咳を、


ごーーーーーーーーーっ


…………。
背後には、川がある。
堤防を超えて溢れるほどではないものの、かなり増水し始めている。普段は澄んで綺麗なその水質は、今や泥を含んだ濁りを見せていた。拓斗は大人しい性格だが、それでも子どもならではの好奇心で、不用意に近付いて落ちでもしたら大変だ。
ここは早々に離れるに限る。
「行こう」
拓斗の手を引いて、私は川沿いの道を歩き出した。
 
それにしても、これからどうしよう。勢いだけで飛び出してくるんじゃなかった、と隣の川のように後悔が押し寄せる。やはりこんなことは早計だった。ほんの少しの、出来心にも似た勇気など出すべきではなかったのだ。
戻るべきだ。帰るべきだ。
家に戻ってちゃんと荷造りをして……。
 
 
『だからお前はダメなんだ!!』
 

ビクッ、と身がすくんだ。
雷に貫かれたような感覚。とはいえ真に雷が鳴ったわけではない。これは私の頭の中で、夫のセリフという雷鳴が、突如とどろいたただけだった。
『馬鹿は馬鹿らしく、大人しくしてろよ』
『もう期待はしてない。最低限、人間として、やるべきことぐらいやってくれよ』
『あぁあイライラさせんじゃねぇ! これだから泣いて済むと思ってるオンナは嫌いなんだ!』
ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい。
心の中で何度も謝る。
そう、私が悪いのだ。要領が悪くて、頭も悪くて、先のことを見越して動けない。だからこんなふうに、初めての家出だって上手くいかない。
「……まま、いたいよ」
どうやら知らずのうちに、手に力が入っていたらしい。苦言を呈する拓斗に謝って、私は息をつく。

ざあざあ。ざあざあざあ。
ごーーーーーーーーーっ。

歩き続ける。
雨の音と川の音は、まるで私を取り巻く世界にかかるノイズだ。昔のテレビの砂嵐のように、意識も視界もモノクロに霞んで、はっきりとしない。
どこへ行けばいいのか分からない。だからといって、あの家に戻るのも怖い。どうにもならないから、ただ漫然と歩みを進めるだけ。
彷徨う。狼狽える。これから一体どうしたら……。
 
 
ケホッ。
 
 
拓斗の咳が、聞こえた。
「ケホ、ゲホゲホゲホッ! ケフッ、ケホッ……」
歩みが止まる。拓斗は小さな手を口に当て、身を折るようにして激しく咳き込み始めていた。
発作だ。
「あ、あ……!」
恐れていたことが起きてしまった。
最悪だ。薬も、近くの病院を検索するためのスマートフォンも、全て家に置いてきてしまった。今この瞬間、私にできることなど何も無い。
そう、せめてこれ以上悪化しないように、冷たい雨をしのげる場所を探すしか……。
「ごめんね、ちょっと我慢してね!」
拓斗を抱え上げ、私は走り出した。
 
水溜まりから雫が跳ね上がるのも、前髪が目に入るのも構わない。とにかく一刻も早く、拓斗を落ち着かせられる場所を探さないと。
走る。走る。ノイズがかった世界の中を私は必死で走る。先程すれ違った見知らぬ誰かを最後に、川沿いの道には人どころか、車の一台さえ通らない。先刻までは、こんなずぶ濡れのみすぼらしい姿を見られたくないので、人気ひとけが無いのをどこか幸運にさえ感じていた。しかしこうなっては全く逆転して不運だ。誰か第三者に助けを求めることもできないのだから。
「はあっ、はぁっ、はぁっ……」
走る。あるのか分からない助けを求めて、走る。
誰か。どこか。どうにか。
私達を、助けて。
「……あった!」


そこは小さな店だった。
玄関の先に、すすけた赤いひさしが突き出ている。壁面に立て掛けられた看板には「Here and There」と書かれている。ここの店名だろうか。
ぼうっと玄関を照らす、ひさしに取り付けられた電球。それは今の私達にとって、薄墨を切り裂く希望の光に他ならなかった。


ひさしの下に駆け込む。今年2歳になる我が子は小さいながらも重く、ここまで抱いて走ってきた肩腰が悲鳴を上げていた。
当然、そんなことはどうでもいいのだが。
「苦しいね。ごめんね。ちゃんと息して、お願い!」
呼吸困難に陥るほどの咳をする拓斗の背をさすりながら、言う。こんなことを言っても我が子の苦しみが無くならないことくらい知っている。それでも馬鹿な私は、力足らずな私は、せめて言葉をかけるしかないのだ。
「落ち着いて……大丈夫だから……ね」
拓斗に言っているのか、自分に言っているのか、そんな気休めにしかならない言葉を。
「ごめんね。ごめんね、ごめん」
己のあまりの情けなさに、涙がにじみかけた。
その時。


からん、というドアベルの軽やかな音と共に、目の前の扉が開いた。


「あの……どうなさいました?」
男性の声。
それだけで反射的に体が強張るのを感じながら、私はそっと顔を上げた。

立っていたのは、大学生くらいの年齢に見える青年。
中肉中背、白いシャツに黒いパンツと靴。シャツの上からは濃紺のエプロンを掛けている。顔の方は、やや垂れ目ということ以外、特筆すべき点は無い。ともすれば地味あるいは無味乾燥になりそうな青年の印象。しかし短く切った黒髪の中に、銀色のメッシュが一房ひとふさ長く垂れているおかげで、その印象はどこか都会っぽい、垢抜けたものに早変わりしていた。

私に、次いで拓斗に、青年の視線が移る。その拓斗の咳はいつの間にか止まっていた。おそらく、母親以外の人物が急に現れたので、驚いた拍子に止まったのだろう。ある意味ショック療法か。
「あの、お客様?」
見た目の割に、声は低めでややハスキー。こちらを心配する響きが多分にこもっている。その呼び掛けられた内容で、私は彼が勘違いをしていることに気付いた。
「え、いえ、違うんです! 私達はその、ちょっと雨宿りさせていただいただけで……すみません!」
そう、私達は客ではない。とはいえこんなふうに玄関先に立っていては、勘違いされてしまうのも致し方なしだろう。拓斗の咳も偶然止んだことだし、ここは早々に立ち去るべきだ。
「でも、ずぶ濡れですよ」
青年は心配そうな雰囲気を崩さない。
「タオルをお貸しします。どうぞ中に入って、休憩なさってください」
「いえホントに! 迷惑ですから、そんな」
配慮と遠慮の応酬になった。

出て行かなければ。こんなふうに店側に手間をかけさせたなんて、夫が知ったらどんなに怒るか。それでも一方で、青年の親切に頼りたい自分、もっといえば青年の親切を嬉しく思っている自分がいるのも、確かだった。
『人に迷惑をかけるな』
夫から言われたこと。
『人の親切を無駄にするな』
これも、夫から言われたこと。
どうすればいい? どうすればいい? どっちに転んでもこの青年を損なうのなら、私は一体どうすれば……。


はいんなさい」


と。
私と拓斗と青年、その全ての隙間に割って入るようにして、第四の声が店の奥から響いてきた。
「雨風が吹き込むじゃないか。迷惑だ何だと思うんなら、さっさと入って戸を閉めないか」
女性の声のようだ。
その声が聞こえた途端、青年は「やれやれ」というふうに首をすくめ、そして改めて私達を中へ招き入れる素振りを見せた。
「…………」
気付けば私は拓斗の手を引き、店の中へと一歩踏み入れていた。
青年の親切に負けたのではない。どちらかといえば「奥から聞こえた声」の圧……有無を言わさぬ強制力に、私は誘い込まれていたのだ。


ざあざあ。ざあざあ。
ごーーーーーーーっ。


外の雨のせいでどこか薄暗い店内を、私は失礼にならない程度に見回す。
まず見えてきたのは、いくつか設えられた机と椅子の群れ。あちらは1つの机に1つの椅子、こちらは1つの丸机に4つの椅子。どんな人数にも対応できるよう、様々な形式の座席を用意しているらしい。
次に見えてきたのは、店の全体図。決して広くはない店内だが、壁に天井に取り付けられた間接照明が効果的な陰影を生み、実際以上に床が広く見える。正面の壁一面は棚になっており、色々な種類の煙草の箱(カートンというんだっけ?)が、びっしりと並んでいた。
さらに見えてきたのは、2つのカウンター。ここから向かって左に構えられた方のカウンターには、瓶詰めのコーヒー豆がずらりと並んでいる。先程の青年はその奥のキッチンに引っ込み、何か作業を始めているようだった。

そして右側のカウンターの前には。
鮮烈な青が広がっていた。


女性。
その黒髪は長い。腰の下まであるだろうか、それを前髪ごと一つにまとめ、背の真ん中辺りで無造作に括っている。
その肌は白い。薄暗い店内で、まるで内側から発光しているかのように。あるいは磨き上げられた白磁のように。
その目は暗い。猫のようにぱっちり大きな吊り目は、女優としても通ずる美しさだが、しかし黒目に光が無い。「吸い込まれそうな瞳」という表現を、まさか悪い意味で思い浮かべることになろうとは。
何よりその服は青い。
一目で良いものだと分かる、ゆるやかなドレープの入った長丈ワンピース。私を包むモノクロームの世界の中で、浮世絵のような、川底のような、猛毒のような不思議な色をした青は、眩しいほどに私の目を刺す。上品なワンピースの胸元は、その上品さとは不釣り合いなほど大きく開いており、女性の白い肌を惜しげもなく晒している。

最後にその態度は……女性の態度は、非常に悪かった。
横柄だ。仮にも、仮にも私達は「来訪者」だというのに、ワンピースの下で脚を組んで座り、カウンターに肘をついてもたれかかり、品定めでもするかのようにこちらに目をくれている。しなやかで美しい指先には、紙巻き煙草が挟まっていた。


「お子さんの前ですよ。せめて煙草は消してください」
奥から戻ってきた先程の青年が、女性に向かって苦言を呈す。対する女性は、私達に目をやったままニヤリと笑い、わざとらしく煙草に口を付けた。
「やかましいわ泡沫うたかた。ここはアタシの店だ、店主が何しようが勝手だろ」
20代後半から30代くらいの外見に反し、女性の声や口調は奇妙に老成しており、またゾッとするほど妖艶だった。
「いえ、大丈夫です。うちの主人も喫煙者なので」
青年と女性に、私は慌てて手を振る。
事実だ。夫は拓斗が乳児の頃から、構わず目の前で煙草を吸った。注意すれば怒鳴られるのは目に見えていたので、初めから諦めていたが。
 
「ババタツエ」
その女性が唐突に言う。全く意味が分からず訊き返すと、女性は面倒臭そうに手元のメモ用紙に何か書き、ずいっとこちらに渡してきた。
馬場立江ばばたつえ。それがアタシの名さ。そっちの男は泡沫栞うたかたしおり。女みたいで変な名だろう?」
メモには2人の名前が漢字で書かれていた。
「あのですね立江さん。今じゃそういうの偏見というか、古い考えなんですよ。すみませんうちの店長がこんなで。はい、どうぞこのタオルを使ってください」
青年……泡沫栞さんは、前半は馬場さんに、後半は私達に向かって言いながら、用意してくれたらしい数枚のタオルを差し出してきた。これまた恐縮で断りそうになったが、私達の髪や服から滴り落ちた水が床を濡らしつつあるのに気付き、遠慮なく従うことにした。

「あの……河端恭子かわばたきょうこといいます。こっちは息子の拓斗たくと。この度はご親切にしていただき、本当にありがとうございます」
拓斗の髪をタオルで拭きながら、私は名乗る。そちらから自己紹介してきたというのに、馬場さんは私の名乗りにまるで興味が無いようで、カウンターの窓から外に向けて副流煙を吐き出していた。
「あ~……この店、煙草屋と喫茶店を兼ねてるんですよ」
居たたまれなくなったところで、同じく居たたまれなくなったらしい泡沫さんが、会話の助け舟を出してくださる。
「そっちの窓が煙草屋のカウンターで、立江さんが売ってます。4箱以上まとめ買いをしてくださった方には、こっちの喫茶店でコーヒー1杯無料のサービス付き。もちろん喫茶だけの利用も可、です。今日は雨のせいでお客様も見込めなかったところですから、お二人が来てくださって、むしろ嬉しいです」
にこ、と人懐っこい笑顔を浮かべる泡沫さん。まったく店主とは真逆の愛想の良さである。
「そうだ、お飲み物を用意しますね。メニューお持ちします」
その泡沫さんからのにこやかな提案に、私の恐縮は最高潮に達した。
「本当に、そこまでしていただかなくて結構です!」
悲鳴のような声が出る。
「泡沫さん……と、馬場さんのご親切は嬉しいですが、私達すぐ出ていきます! それに、」
かっ、と羞恥で顔が熱くなる。
「それに私、今……お金を持ってないんです」
 
 
もう嫌だ。穴があったら入りたい。
元から身に余る親切だった。見るからに理由ワケありの私達を招き入れ、雨宿りの空間を提供し、綺麗なタオルまで貸してくださった。このままでは「雨が止むか弱まるまでここにいろ」とまで言われかねない雰囲気だ。
慣れていない。どうしたらよいか分からない。こんな久し振りの、無償で包んでくれるような温かさは。
「ごめんなさい。私が返せるものなんて、何も……!」
心が震えて仕方なくて、いっそ消えたくなった。
その時だった。


「ケホッ」


咳が、聞こえた。
何ということだ。拓斗の咳が、ぶり返したのだ。
「ああ、あ……すみません! すみません! すぐ落ち着かせますから! ほら、静かにしなさい!」
拓斗、と私はしゃがみ込み、小さな背中を軽くトントンと叩く。対する拓斗の咳は収まるどころか、息つく暇も無いほど激しくなり始めた。
どうしよう。これ以上は迷惑をかけられないと、考えていたところなのに。泣きそうになりながら、いや半分泣きながら、私は拓斗に無理な懇願を続けようとした。

「来な」
と。
それまで無関心を貫いていた馬場さんが、にわかに振り返ってこちらを見た。手招きする表情は、先程までと打って変わって真剣だ。

「え? えっと、あの、」
「ぼさっとするんじゃないよ。その子をこっちに寄越すんだ」
何が何だか分からない。戸惑う私にしびれを切らしたのか、馬場さんはずっと座っていた椅子から立ち上がり、つかつかとこちらに近付いてきた。
ぐいっ、と。
咳込む拓斗の顔が、馬場さんの手で無理に持ち上げられる。
「やめてください何するんですか!」
分からないままだが、拓斗に手を出されるのは流石に看過できない。
「黙ってな」
馬場さんはピシャリと言い、手にしていた煙草に口を付け……、
 
 
あろうことかその煙を、拓斗の顔にふうっと吹きかけた。
 
 
ヒッ、と自分の喉が鳴った。
「拓斗っ!!」
直後。私は拓斗に飛び付き、小さな体を抱き寄せていた。すぐに懐に隠すようにして拓斗を守る。
キッ、と馬場さんを睨む。
とんでもないことをされた。いくら私達2人が副流煙に慣れているからって、直接吹き付けられるのはわけが違う。どうしてこんなひどい真似をするのかと、湧き上がる怒りのままに口を開こうとして、

「まま?」
きょとんとした拓斗が、私を見上げていた。

「えっ?」
思わず間抜けな声がもれる。
あんなにいていたというのに、拓斗の呼吸は今や、何事も無かったかのように静かだった。顔色も戻り、苦しそうな様子すら見せず、こちらの手を握ってくる。
どう見ても、馬場さんに煙を吹きかけられたことで、拓斗の息は安定したのだ。
「な……一体何が……」
「ちょっとした『まじない』だよ」
唖然とする私に対し、椅子に座り直した馬場さんが、これまた何事も無かったかのように煙草を吸いながら言う。
「咳止めは得意でね。子どもなんて別に好きじゃないが、そう目の前で苦しまれちゃあ放っとけないだろ。そんな若いのに無念なことだね」
因果関係は分からない。が、馬場さんの『まじない』で、拓斗の咳が収まったのは事実らしい。失礼な態度をとってしまった。
私はお詫びと感謝を述べようとして、

先程の馬場さんの不自然な言葉に、思い当たった。
「何だ、まさか気付いてなかったのかい?」
馬場さんは言った。
「その子さ、」




「もう、死んでるじゃないか」




 
 

次回


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