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芸術作品のアウラ・記号・解釈・視線について:『アルノルフィーニ夫妻の肖像』を例に

芸術作品とアウラ

 複製技術が未発達の時代。ベンヤミン曰く、芸術作品は独特のアウラを宿した。それは「いま」・「ここ」目の前の造形から直接感じ取る霊的な神秘性であり、また、現実生活の営みの中に確かに存在しているものの、どこか切り離されて縁取られる創造的世界観のつかみどころのない魅惑でもあり、想像の域を遥かに超える歴史的重厚性に圧倒されながらも、作品との刹那的な交わりに歓喜する鑑賞者が経験する情動的な揺さぶりの根源をも指すのだろう。「名作」と呼ばれる芸術作品は、このような独特なアウラを纏うものばかりだが、ヤン・ファン・エイクの『アルノルフィーニ夫妻の肖像』はその中でも特別な趣のある作品だと思う。

幼児をも虜にする絵画の魔力

 はじめて『アルノルフィーニ夫妻の肖像』と出会ったのは4歳ばかりの時。その頃、私は親の仕事の都合上、ロンドンに移り住み、急に現地の幼稚園・小学校にぶち込まれ、なぜか爆発的に英語が話せるようになるまで、1-2年程度、ほぼ誰とも意思の疎通を行わずに学校生活を送っていた。無口だったことは、会話ができないという諦めの消極的ながらも自発的な表明であり、また、コミュニケーションの断絶から生じる一切の不都合とも向き合うつもりもないのだという、幼児がプライドを保つための精一杯の意思表示だった。
 しかし、誰とも関わらないまま過ごす学校はあまりに長時間で退屈である。一旦息が詰まる空間から解放されると、『地下鉄のザジ』や『ぶたのオリビア』がごとく堰を切ったように、スーパーやら自宅やらで大暴れする子のエネルギーを抑え込むため、母はよくナショナル・ギャラリーをはじめとした美術館に連れて行った。都合が良いことに、イギリスは文化政策の一環として多くの美術館や博物館に無料で入場できたし、お城のような建物の中でフカフカのソファーに座って絵を描き放題といった空間は、お姫様に憧れる子供にとってはなんとも魅力的なものだった。一転して落ち着き払う娘の様子に母も安堵したことだろう。
 模写をする絵を吟味するため、ぐるっと館内を歩き回ると、一際目を引いたのは、ゴッホのひまわりでもターナーの美しい空の色彩でもホルバインの摩訶不思議な骸骨の絵でもなく、『アルノルフィーニ夫妻の肖像』。特に、夫妻の足元で愛らしくこちらを見つめる犬が強烈に印象に残った。ちょうど子供の視線の一番近くにもいたのだろう。その犬を「ピッコロ」と名づけ、取り憑かれたかのように模写をし、話しかけ、冒険物語を考えた。美術館を離れて学校に戻ってもなお、「ピッコロ」は生活の一部であり続けた。「ピッコロという犬を飼っていて、みんなには秘密だけど学校に連れてきちゃった」という設定を作り、空想の世界を張り巡らせ、休み時間は「内緒のお散歩ごっこ」に勤しむだけで憂鬱だった学校も突如として笑えるほど愉快なものになった。異国の地で言語や社会通念の障壁に苦しむ現状は変わらないものの、子供の内面の世界は、絵画をヒントに、その色彩と解像度を高めて限りない自由を得た。
 絶対に自分だけの所有物にすることはできない、ましてや幼児にとって限りなく遠いところにあるはずの芸術。しかし、同時に、「いま」・「ここ」にある存在に呼応する形で、たとえ誰であれ、その者だけの鑑賞体験と感性と記憶を喚起するのもまた芸術なのである。制度やルールを理解しない者は否応なく感覚を共にすることから阻まれる言語や社会とは異なり、不思議な距離感で親近感と寄り添いをもたらす芸術の魔法は幼児をも虜にした。芸術の魔力に身を委ねる最初のきっかけをくれたのがまさしく『アルノルフィーニ夫妻の肖像』だったのだなと今、振り返ってみて思う。

毛並みがとてもリアルでかわいい「ピッコロ」

偏屈な子供から批判理論の研究者の端くれとなって

 13年ぶりにロンドンに帰ってきた時、すぐさまピッコロに会いに行った。再会した第一印象は、「結構小さい絵だったんだな」だった。実際には、紺色の壁紙の薄暗い一室でぼんやりとした明かりに照らされながら、部屋の奥で静かに佇むそこそこ小さな作品なのだが、幼少期の記憶の中の『アルノルフィーニ夫妻の肖像』はとても壮大で威厳があって、ピッコロは実物大の犬ほどのイメージにも膨れ上がっていた。想像の中で一緒に過ごした時間が長く、濃密だった分、ちゃっかり記憶補正が掛けられていた。第一人称の語りなんてホント、アテにならないものである。
 19年前は家族の仕事の都合でイギリスへと渡っていたが、今度は大学院進学のため自分の意志で、批判理論の研究者の端くれの、そのまた端くれとして絵の前に立っていた。歳も重ねれば絵を観て感じること、気づくことも変わっていた。LSEのクラスメイト、そして日本やサセックスから私を訪ねてくれた旧友、卒業式の時期にはまた母とも同じ絵の前で立ち話をした。話したような内容を掻い摘んでちょっとだけ紹介したい。

ファン・エイク『アルノルフィーニ夫妻の肖像』

記号の掛け算と絵画の解釈

 この作品は、多くの記号が用いられていることは有名だが、どこを抜き取って語るかによって解釈が異なってくるところが面白い。

①「富の誇示」説とその理由
・まず、この絵を「金持ちの自慢」と解釈するいう説。巨大な赤いベッドや鏡とシャンデリアに代表される豪華な部屋の装飾品は富を象徴する。
・人物が身にしている洋服からも裕福な家族の肖像だということが伺える。特に、女性が着ている服は贅沢に布地を使い、優美な模様に織り込まれ、さらにはファーまであしらってある。なんならふんだんに用いられた生地を見せるためにたくしあげている様子まである。
・小さなディテールのオレンジや美しいカーペットまでもこぞって富を暗示している。

細部まで飽き足らず、金持ち自慢という解釈がまず、できるのだ。一方、通説としてもう1つ言われているのが、この絵は男性(Giovanni Arnolfini)が向かって右に立っている亡き妻に向けた弔いの物なのではないかという説だ。

②「亡き妻への弔い」説とその理由
・鏡の縁にあしらわれている小さな絵はイエス・キリストの受難と復活を表象している。
・シャンデリアのロウソクが1本だけ灯っている。神の加護を示しているという読みや、夫の側にのみ光が存在する=夫だけが2人の中で生命を燃やしているという解釈が可能。
・犬は夫妻の貞節の象徴。
・脱がれた靴はこの部屋が神聖な空間であることを示す。
・小さな箒は妻の家庭に対する誠実さを表す。
・誓いを立てているかのように見える夫のポーズ。
・顔の凹凸や彫りに皺。瞼や頬に表れる複雑な血色感。影。写実的に描かれる夫と対比して、妻は宗教画っぽい、個人を断定可能とするような特徴を含まない抽象化された美しい顔立ちと陶器肌が特徴的。ファン・エイクの『ファン・デル・パーレの聖母子』のなかに描かれる聖母の雰囲気を纏う。
・「ヤン・ファン・エイクここにありき。1434年」は画家のエゴが沸る刻印というよりも、神聖な婚姻の儀式を認証する証言として理解できる。

 どの記号群に着目し、解釈をするかによって見える世界観が変化するという興味深い絵だけれども、弔いの絵という解釈の方が個人的にはしっくりくるし、好き。

ファン・エイク『ファン・デル・パーレの聖母子』

芸術家の遊び:視線の戯れに誘い込まれる鑑賞者

 絵画の中の鏡を通した視線の遊びと鑑賞者の立ち位置を問う作品は、フーコーもよく題材にしていた。"The Order of Things" の序章『ラス・メニーナス』は、ベラスケスの作品を題材に、画家の視線と絵の中の鏡と芸術というコミュニケーションの中の鑑賞者の役割を問う内容だったし、"Manet and the Object of Painting" でもまたマネの『フォリー・ベルジェールのバー』を例に絵画に表れる空間の物質性と鑑賞者の位置について言及している。

ベラスケス『ラス・メニーナス』
マネ『フォリー・ベルジェールのバー』
Somerset House 内の The Courtauld Galleryでお目に掛かれる

鏡が中心的役割を担う作品として、『アルノルフィーニ夫妻の肖像』の中の視線の動向も面白い。

 夫の視線の先には妻が。帰らぬ人となった妻の憂いを含んだ慈悲深い視線は夫婦の間に向けられる。亡くなった者に対する深い愛情と敬意、亡くなった者から愛する家族に対する慈愛は俗世において、もう目に見える形で交差することは無いのかもしれない。しかし、その温かな感情は確かにあるのだと絵画の上ではせめて、物質的に表現され、形あるものとして刻まれる。
 さらに、二次元という絵画の構造上、一見焦点が合っていないようにも見える妻の視線は壁に備え付けられている鏡にもぶつかっているように錯覚される。鏡の中の表象を覗くとファン・エイクともう1人の人物が描かれていることが分かる。鑑賞者、すなわち、わたしたちである。鏡から下へと視線を落とすと、可愛らしい犬が真っ直ぐな眼でこちらを見つめる。家族の一員として寵愛を受けているだろう犬が、神聖な婚姻の契りの場にファン・エイクに加えてまた1人証人としてその瞬間に立ち会うよう、鑑賞者を優しく促す。

 さまざまな解釈を可能とする不思議な絵は、視線の戯れをもって鑑賞者も巻き込む。静的なはずなのに、実に多くを語ってくれる。それも、アウラを発するだけでなく、その神秘的な力が顕在化する過程で多くの人を巻き込むような方法で。

 時を経ても、文化を学んでも、たくさんの好きと魅力が詰まっているのが大好きな『アルノルフィーニ夫妻の肖像』なのだ。

余談とおわりに

 友達とこの絵を訪れた時、ひとりの小さい女の子がピッコロを指差して「あのワンちゃんかわいい!どんなこと考えてるのかな」って言っていたことがあった。そうだよね、可愛いよね。あなたはこの犬をなんて名付けるのかな、どんな経験を共にするのかな。小さい頃、ピッコロを前に喜ぶ私のことも誰かが微笑ましく思っていたのかな。絵画のアウラは積層的な時間を経る過程で多くの人を巻き込み、寄り添い、さらなる解釈を産んでいく。なんとロマンチックなことだろうか。

 朝からお腹が痛くてちょっと何事もやる気が出ないけど何もしないわけにはいかないことが事の発端となって書き始めたブログにしては少し書き過ぎたかもしれない。もう翌日の午前1:11である。ここまで読んでくださった方々、長々とお付き合いくださり、ありがとうございます。

良いお年を!

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