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セカイのカタチ

”自分という存在がなければ、自分が観察しうる世界も存在しない”

 僕の中ではある程度、セカイというのは自分の中にあり、思う通りのカタチをしているのだと思う。

 冬の朝、冷たい空気に身を縮めながら低い太陽から光をもらうとそれでもだんだん元気になってくる。その時僕は世界は僕にやさしいと感じる。

 一方で、セカイはとても残酷で奪われないはずの命が毎日どこかで失われている。その悲しみに僕はため息をついてしまう。

 誰かが言った。

”想像してごらん? 争いのない世界を”

 僕にはそれができない。できないけれども想像したいと思う。想像できるに足りる不足した情報を別のもので補う。それは今日僕が感じたセカイのやさしさが、誰かの苦しみを癒してくれると期待すること、願うこと、そしてもし、僕がどうしようもなく生きづらくなったときに誰かが手を差し伸べてくれることを想像する。

 そうやって僕のセカイは整えられ、生きるためにすることと、生きていると実感できることの区別をつけながら、セカイと折り合いをつけていく。

”わたしが生きづらく、苦しく、悲しみに満ちているのはセカイが間違っているからだ”

 僕は思う
”人を呪わば穴二つ”

 どんなに恨んでもセカイはその姿を変えることはない。いや、むしろ醜悪な姿に変化し、爪を伸ばし、牙をむいて襲いかかってくるのかもしれない。

 人は言う
”自分が変わらなければ、セカイは変わらない”

 僕は考える
”誰もが簡単に変われるわけではない”

 だから僕は言葉を尽くす。
 僕の言葉が冬の朝の柔らかな日差しとなって、凍り付いた心の壁を溶かすことができるようにと。それはやさしさではなく、或いはエゴなのかもしれない。それでも僕は言葉を尽くす。

 言葉を尽くす限りにおいて、セカイは変わり続ける。その変化は小さく、弱く、見ることさえできないような無色で、無味で、カタチすらないのかもしれないけれども、岩の形を少しずつ削り取るような小さな粒、小さな流れ、砕け散ってなくなってしまうようなしぶきであろうが、僕はそのエゴを通すのだろうと思う。

 春が来た。
 桜の花びらが散っていく。
 やがて夏が来る。
 そして秋が来て、また冬がやってくる。

 繰り返されるその営みは、それでも少しずつ変化をしていく。

 だからまた少しずつ、言葉を変えていく。
 セカイのあるべき姿を想像するのに足る、ままならない今を変えていくために、或いは僕が僕であるために、言葉を尽くす。

 セカイのカタチは、僕を形づける。
 だからセカイは僕の中にあると思える。

 きれいだな、うつくしいな、やさいいな

 誰もがそう思えるようなセカイを想像することは難しい。簡単なことなんかこの世の中にないのだとわかるから、それでもいいと思う。

 それでもいいと思えれば、そうでなくてもいいとも思える。

 時に折り合いをつけ、時に抗い、時に流されたとしても、僕がいる限り、あなたがいる限り、セカイはあり続け、変わり続ける。

 存在するということは、それだけ強いことなのだと、力があることだとわかりさえすれば、セカイはそのカタチを変えていく。

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