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真っ白な嘘

作詞をしたり、小説やエッセイ的なものを書いたり、僕は常に言葉と向き合っている

だから人の無意識は、言葉という形で現れることがあることを知っている

「知らない者は探さない」とはとあるアニメで使われている(原作コミックにあるかどうかは不明)セリフだけれどもこれはひとつの真理であり、心理だと思う

そしてその逆も真

隠したいことを無意識で人は語ってしまう

ちょっとした言葉の使い方や選び方の中に僕はそれを見出すことができる(もちろん気づかないことのほうが多い)

しかし多くの場合それはなんの役にも立たない
無益ならまだしも有害であることのほうが多い

知らないほうがいいことがある

本当にそう思うが、僕は無視をしない

悪意で嘘をつくときは綿密に計算されているが、とっさの嘘やごまかし、特に事実を隠すことの後ろめたさや負い目というのは、無意識のうちに言葉を歪める
ときにそれは表情や声に現れる
僕は視覚情報から物事を分析することは苦手で、どちらかといえば文字と音、言葉のリズムの違和感といったものに敏感だ

言葉を濁す

と文章では表現するが、どのように濁っているのかを説明するのは難しい

たとえば「今どこにいる?」
の問いかけに
「うちにいない」
という回答があったとき、これは言葉が濁っているといえる

普通は「どこどこにいる」
あるいは「外出している」や「買い物に行っている」や「友達と一緒」などという言葉になる

「うちにいない」とは何か
どこに行っているのか、だれと一緒なのか、何をしているのか
それらの一つか複数を胡麻化すために言葉が濁る

しかしながら僕は思う
それでも最大限回答をしているのだから、言いたくないことを聞かなくてもいい

嘘とは嘘をつく人間が作り出すものではない
嘘をつかれる人間がいて嘘は生まれる
嘘をついた者だけの責任ではないと僕は考えている

だから嘘をつかせないように僕は振る舞う
どこにいる? 何をしてる? 誰といる?
と問いかけたら、それは故意に相手に嘘をつかせることになると僕は考えるようにしている
気分がいいか悪いかは別の話だが

嘘そのものに罪はない
罰のないところに罪もない

嘘はいけないという罪に罰を設けるから何かが傷つくことになる

よい嘘をついたからといって褒めることもないが、嘘のない世界など摩擦しか生まれないことを知っている

赤い嘘、黒い嘘があるのなら白い嘘、青い嘘もある
だとすれば、白を黒くしたり青を赤くするのは嘘をついたものだけの問題ではないのではないか

断定はできないし、したくもないが、疑うのではなく受け入れてこそ真実の形というのはより鮮明に見えてくる

事実が実態だとすれば嘘は空間であり、嘘があるから真実が見えてくる
そういうものだと僕は思いたい

でなければ誰もサンタクロースの存在を信じられない

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