『ひらめき』がひらめかない日常
”あっ! いいこと思いつちゃった!”
というときがあって、そんなとき人は絶頂感と疾走感でわくわくしている。それを言語化すると『ひらめき』ってことになるのだと思う。
逆に嫌な予感というのは良くも悪くも当たるもので、そんなときには絶望感まではいかないまでも、面白くもないし、停滞を余儀なくされるような……夢の中で怖いものに追いかけれられたり、或いは何かを追いかけようとしているのに追いつけないようなもどかしさを感じる。
そして日々の暮らしの中でそのような起伏は毎日のように起きたりもしないし、ひらめこうとしてひらめくようなものでもない。むしろ人生は嫌な予感に満ちている。少なくとも僕にとってはそうだった。だからこそ、ひらめいたときは舞い上がる。
そのような『ひらめき』なるイベントはどのようにして起きるのか。簡単に言えば、頭の中、脳の仕組みとしてシナプスがつながるようなイベントが生理的に起きることなのだろうけれども(いや、簡単に言えていない)。
退屈な日常こそ平和の象徴であり、平和である以上ひらめく必要性もないのにもかかわらず、『ひらめきイベント』は発生する。ひらめいたことによってその後の時間の過ごし方の意識が変わったり、行動する基準がかわったりすることで新し時間軸が生まれるのだとしたら、『ひらめき』とは変化の兆しであってすなわちそれは人が人たる所以であるのかもしれない。
いや、人に限らず生物すべてが何かしらの『ひらめき』の歴史の積み上げがあって現在に至っている可能性が高い。そう考えると『ひらめき』とは遺伝子上に組み込まれた係数と乱数からなるアルゴリズムだと言えなくもない。そう考えると物事はずっとシンプルに見えてくる。
『ひらめき』は誰にでも起きるし、誰にでも起きない時間が存在する。頻度や『ひらめき』が引き起こす変化は当たり前に個体差があって、それは個性を形成するまで行かずとも、個性がどの方向に変化していくのか、傾きのありようのようなものだとするのであれば、ひらめきがないこと、ひらめきによって大して人生が変わらなかったとしても、なんら不思議はないことがわかる。
いや、わからない。
やはり『ひらめき』とはもっと神秘的であるべきだという欲求がそこにはある。努力にもよらず、行動や思考によらず、ただ起きるものだとするのは、何よりも夢がない。
人はなぜ夢を見るのか。夢を見ることで別の可能性を見出す体験を人は少なからずしているのだと思う。それは啓示であり、神秘的なパワーであり、何か特別なものであるべきだと考えずにはいられない。
だからこそ『ひらめき』を求めて人は試行錯誤をする。ある人は眠ることも惜しんでひらめくまで粘る。ある人は寝て待つ。ある人は他社とのコミュニケーションの中にそれを求め、ある人は何かを接種して精神的な効用を得てひらめきにたどり着こうともがく。
手を伸ばせばそこにあるものでは決してないのだと感覚でわかりながらも、人はその『ひらめき』にすべてを委ねたり、賭けたりすることに不安を感じ、せっかくの『ひらめき』もどこかに置き忘れてしまうこともある。
そしてこんなことをひらめかなければよかったと後悔することもある。
それでも人はひらめく。
ひらめく限り、可能性は広がる。
と、こんな話をひらめいた僕は、書かずにはいられず、今少しだけ後悔をしている。
本当はほかにいくらでも書きたいことがあったはず何に、ひらめいたばっかりに、ひらめきだけの話で終わってしまったではないか。
ひらめきは奇跡
FLASH ! Ah-ah
He's a miracle
なんて歌詞が頭をよぎる。
ひらめきなんていらない。
ひらめきだけでは生きられないが、ひらめきなしでは生きたくない。
ひらめかない時間を大切にすることで、その先にブレイクスルーになるようなひらめきがあるのだろうとはわかる。
先日ふと思いつき(軽いひらめき)で、映画館に足を運んだ。さてどっちにしたものかと思い、僕がどっちを選んだのかは言うまでもないと思う。
これはよきひらめきでした。
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