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リアリティ・トランサーフィンの考察⑭『バリアントの流れ:ねだり屋、怒りん坊、無鉄砲者』

前回の記事のまとめ

前回の記事ではバリアントの空間にある情報フィールドについて考察しました。フィールドにはすでに現実化されているセクターと、まだ現実化されていないセクターが存在しています。

現実化されているセクターとはつまり、この世界として現れているものごとのことです。透視能力者はこの現実化されているセクターであれば、自分から遠く離れたものごとであっても情報フィールドにアクセスして見通すことができるようです。

現実化されているにせよ、されていないにせよ、情報フィールドにある情報には、理性(左脳=顕在意識)ではアクセスできません。それができるのは魂(右脳=潜在意識)です。

しかしながら、魂(右脳)はアクセスした情報を言語化、記号化することができません。このため、理性(左脳)がこの情報を魂(右脳)から受け取って言語やシンボルに翻訳しなければ、これらの情報が外の世界へと表現されることはありません。

振り子や平衡力への対応でつねにフルパワーで働いている理性(左脳)が魂(右脳)のもたらす微かな情報(内なる声)に気づくことはなかなかに難しいことです。ですから、必要なことはまず、振り子や平衡力の影響力から自由になることです。これによって思考の奔流に呑まれてしまった内なる声を見逃してしまうことをすこしでも避けられます。

もうひとつには、内なる声の響きともいえる感情に目を向けることです。この感情を「魂の快」「魂の不快」といいます。魂の快が感じられるとき、そこには耳を傾けるべき情報があります。また、魂が不快であるとき、それはなんらかの悪い知らせ、あるいは悪い予感そのものと言ってよいでしょう。

現実化されていないセクターには幸運の波へとつながる宝の山が眠っています。振り子や平衡力から解放された状態、すなわち理性の働きが弱まっているときに、魂の快と不快を手がかりに内なる声に耳を傾けることができれば、この宝の山に眠っている情報を現実化させることができるのです。


ねだり屋、怒りん坊、無鉄砲者

ここまでが前回の記事の内容のおさらいでした。

いずれにしてもわたしたちは未来に向けて、現実化されていないセクターをつねに現実化させながら生きているわけです。その人生の通り道のことをトランサーフィンでは人生ラインと呼んでいますが、振り子や平衡力に振り回されている状態では、この人生ラインはけっして望ましい方向へと向かっていかないことはもうお分かりかと思います。

さきほど宝の山を現実化させることについて述べましたが、人生ラインそのものが振り子や平衡力の影響力から遠いところを歩んでいるなら、その人生ライン上にはまさにこの宝の山がたくさん存在しているでしょう。もっとも、そんな人生ラインであっても、よくない出来事が起こるセクターがまったく存在していないわけではありません。

トランサーフィンの本領は、この望ましい人生ラインをいかに安全に進んでいくかを学べるところにあるとわたしは理解しています。トランサーフィンはエネルギーの観点から物事を説明していますが、その観点からいえば、安全で幸せな人生とは、最小限のエネルギーをものごとへと適切に振り向ける生き方です。人生を川にたとえるなら、流れに沿った生き方と言うことができるでしょう。

そんな生き方についてはこれからの内容で詳しくみていくことになるわけですが、その前にあらためて、そうではない生き方について振り返ってみましょう。川の例えでいえば、流れに沿っていない生き方です。


ねだり屋

ゼランドが流れに沿っていない生き方としてまず挙げているのが「ねだり屋」です。ねだり屋は自分ではなにもせず、ただ流されるだけです。自分の感情を抑制し、強い主張をせず、目的のための行動を起こすこともなく、それでいて目的(願望)が達成されればよいなと願っています。

怒りん坊

怒りん坊はねだり屋の真逆の人で、彼はつねに不満をあらわにしています。すぐに怒りだし、なんでも人のせいにします。怒りん坊もよくよく見ればねだり屋と本質的にはおなじで、なんの行動もおこさず、責任もとらず、ただただ流されているだけです。

自分の感情を抑制しても、反対に、不満を表明しても、振り子への依存関係に引きずり込まれてしまうことを、私たちはすでに知っている。重要性のポテンシャルについて述べた章を思い出してもらえば、すべて明らかになるだろう。ねだり屋は自分の罪のポテンシャルを産み出し、自発的に人形遣いの手に自らを委ねる。
(中略)
怒りん坊は不満のポテンシャルを産み出し、平衡力が自分に対抗して働くようにし、自分で自分の運命をどんどん悪くする。

「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン―幸運の波/不運の波の選択
ヴァジム・ゼランド著(以降の引用文も同じ)
※太字はわたしによる強調です

無鉄砲者

いっぽう、また別のタイプの「流れに沿って生きていない人」がいます。それが無鉄砲者です。

その人の考え方は、自分の運命は自分の手の中にあるはずだというものである。そういう人は、陽のあたる場所を求めて世界と闘い始める。このような無鉄砲者は、過酷な立場に身を置きながら、振り子との戦争を行い、競争に参加し、肘で人を押し退ける。つまり、全生涯が生存を賭けた闘いの連続となる

さて、闘うことを選んだ無鉄砲者は、ずっと生産的な立場にあるはずだが、その人生は苦難に満ち、多大な労力を消費するものとなる。どんなに抵抗しても、蜘蛛の巣にがんじがらめにされるだけとなる。

わたしも昔はこの無鉄砲者のひとりでした。ゼランドが指摘しているように、無鉄砲者は自分で運命をコントロールしている気でいます。しかし、彼は本当にコントロールできているのでしょうか?

無鉄砲者の人生はなかなかにハードです。こういう人生を選んでしまう人はそもそも結構タフでバイタリティにあふれがちですから、たいていの苦難もなんのそのです。そして、そんな人ですから、ついには目的を達成することさえあります。傍目にみても、ねだり屋や怒りん坊よりはずっと成功しそうに思えますよね。

いわゆる成功者の武勇伝として語られるストーリーには、こうした無鉄砲者の話が多いです。それは当然のことで、たいした苦労もせずただ波に乗っていたら成功していました、というようなストーリーは多くの人にとって共感しづらいですが、戦って傷ついて倒れても立ち上がって最後には勝ったというような物語はずっと受け入れられやすいからです。

しかし、ここで気づかないといけないのは、ほんの一握りの成功した無鉄砲者の背後に、戦って傷ついて倒れてそのまま立ち上がれなかった無数の無鉄砲者が存在しているはずである、ということです。

そしてもうひとつには、果たして本当にそのストーリーである必要があったのだろうか? ということです。人生をそこまでコントロールしようとする必要はあるのでしょうか?

(無鉄砲者が)ゴールまでたどり着けることがあるかも知れない。そして、本人自身も非常に満足していることだろう。しかし、目標達成そのもののために費やしたエネルギーよりも、むしろ振り子への年貢として取り立てられたエネルギーの方がはるかに膨大であったことを、彼らはまだ理解していない。

ここで単純な数字を使って考えてみます。無鉄砲者がこれまで使ってきたエネルギーの総量を仮に100とします。純粋に、目標を達成することのために使われたエネルギーは40でした。残りの60はどこへ消えたのでしょうか? それは、一言でいってしまえば振り子との戦いに消費されたということです。

数々の振り子に捧げた(年貢としておさめた)エネルギーもあれば、振り子の周辺で無鉄砲者自身が発生させた平衡力との闘いに使ったエネルギーもあるでしょう。無鉄砲者は、この60のエネルギーこそが目的を達成させた原動力だったと考えているでしょう。でなければ報われませんね。

でも、その60のエネルギーをすべて目的を達成することそのものに振り向けていたならば、合計で100のエネルギーで目的に取り組むことができたのです。また、これは目的を達成できた無鉄砲者のケースですが、ほかの多くの無鉄砲者はこの60のエネルギーで振り子や平衡力と闘って破れてしまうのですから、この60のエネルギーは無駄遣いであることは明らかです。


流れに沿った動き

乞い願うことも、要求することも、闘うこともなく、ただ行って取ってくるだけ

ここまで、流れに沿っていない生き方についてみてきました。それでは、流れに沿った生き方、動き方とは、どのようなものになるのでしょうか。

それについてゼランドは「乞い願うことも、要求することも、闘うこともなく、ただ行って取ってくるだけ」であると言います。

ねだり屋と怒りん坊は、人生の流れのなすがままに漂う。反対に、無鉄砲者はこの流れと闘おうとする。

乞い願うのはねだり屋の生き方です。要求するのは怒りん坊。闘うのは無鉄砲者です。これらは流されているだけか、流れに抵抗しているか、であって、流れに沿っていないということになります。

これまでにみてきたのは、理性が、権威を振りかざして常識に基づいた自分の意志を押しつける様子である。
実は、理性が頼りになる決定を下すことのできる保証はない。理性自身は冷静に考えているつもりだろうが、実は、振り子の請け売りをしているだけだから。人が、ねだり屋、怒りん坊、無鉄砲者の役割を演じている間は、移動の自由すらない。無鉄砲者でさえ、意思表明の自由度は紙の舟ほどもない。

要するに、ねだり屋も怒りん坊も無鉄砲者も、すべて理性が勝ちすぎているということですね。人間にとって理性は必要不可欠なものですが、多くの場合、理性が働きすぎて、あるいは理性をあてにしすぎているようです。理性(左脳)はつねに正しくあろうとし、そのためにつねに考えているつもりでいます。これは重要な問題だぞ――と。

しかし、理性が頑張ろうとすればするほど、そこには過剰ポテンシャルが発生します。そして、否応なしに振り子と平衡力の影響下に置かれてしまうのです。そこにはまったく自由がない、とゼランドは言います。


ただ行って取ってくる

流れに沿った動きとは、そうではなく、ただ行って(望ましい人生ラインへと進んで)、取ってくる(そこにあるものを受け取る)だけでよいということですね。もうすこし詳しくみていきましょう。

それでは、こう言う泳ぎ方はどうだろう。流れに抵抗せず、余計な渦も作らず、そうかといって紙の舟のようになすがままに漂うというのでもない。流れと調和して進むのだが、暗礁や障害物や危険なポイントが近づいて来ることに気づいたら、ひとかきふたかき泳ぐことでかわしながら、当初選んだ方向を維持しつつ進み続ける。この場合、舵はあなたが握っていることになる。

つまり、流れに逆らわずに行くのですが、舵は自分でしっかりと握り、必要なときには最小限のエネルギーで軌道を修正する、ということになるでしょうか。

これまで見てきたように、理性は常に人為的に作り上げた重要性の影響下にあるため、効果的な決定が下せない
(中略)
平衡力の作用は、流れの途中において、早瀬や渦巻きのような形で現れる。もし重要性を与えることをやめにしたら、流れはもっと穏やかな水路に変わるだろう。

もし重要性を放り出したら、理性はほっと一息つくことだろう。なぜなら、振り子の影響やわざわざ作られた問題による抑圧からも解放されるためである。これで理性は、より客観的で適切な決定を下せるようになる。しかし、もっと素晴らしいことは、重要性から解放された理性が、強力な知性を必要としなくなることにある。もちろん日常の課題を処理するには、論理的思考も知識も分析能力も必要である。しかし、こうしたことすべてに要するエネルギーは大幅に削減される。するとバリアントの流れは、これまでそれをほとんど利用していなかった理性にとって、豪華な贈り物となるのだ。

そして、その流れそのものも重要性を手放すことによって穏やかに変わります。つまり逆にみれば、流れを荒々しく危険なものにしてしまっているのは理性(=左脳=思考)が過剰に働いてしまっているから、なのですね。

しかし、いったん重要性を手放し、理性が浪費していたエネルギーが削減されてくると、その浮いたエネルギーをバリアントの流れに存在している宝の山のセクターからの情報を魂からうけとって翻訳する作業へと振り向けられるようになります。これがゼランドのいう「豪華な贈り物」です。そしてそれこそが、理性が必死になって探そうとしていたもの(答え、解決方法)なのです。

解決方法がバリアントの空間にすでに存在しているのであれば、強力な知性は用がない。もし厄介で込み入ったことに首を突っ込むわけでもなく、バリアントの流れを邪魔するのでもなければ、解決方法は自然にやってくる。それも、最も適切なものが来るのである。

これこそメーテルリンクの青い鳥のようですね。

最適性は情報フィールドの構造の中にすでに備わっている。実は、因果関係がバリアントの流れの中に個々の小さな流れ、小流、というものを産み出している。この小流は、ものごとが原因から結果へと流れる時の最適な道である

これはなかなかエレガントな考えですね。人生の大きな流れのなかには、より小さな流れが存在しているとゼランドは言います。この小さな流れ、小流は無数に存在しているものごとの、個々の因果関係に沿っているということのようです。つまり、この小流を見逃さずにとらえてそれに乗れば、ものごとは自然に最適な結果へと流れていくということです。

バリアントの空間にはすべてが存在するが、高い確率で現実化されるのは、まさにこの最も適切であり最小限のエネルギー消費で済むバリアントである

この項目は「本来なら」という但し書きをつけて読む必要があるでしょう。本来なら、バリアントはもっとも適切なルートを最小限のエネルギーで流れていくものです。小流に乗れていれば、そうなります。

しかしながら、

振り子に取り憑かれた理性は、振り子の利益のために行動するようになるため、いつも小流から外れる

小流の存在は、理性にとって本当に豪華な贈り物である。どの問題の中にもその解決方法の鍵が暗号化されて入っている

ということです。さきほど登場した「豪華な贈り物」とは、この小流に入ることと同じであるということですね。

問題の中に解決方法の鍵が暗号化されている、ということはどういうことでしょうか? 非二元の観点では、「質問(問題)と答え(解決方法)は同じである」といいます。非二元においては「すべてはひとつ」ですから、質問も答えもおなじ一つのものを違う角度から見ているだけだ、ということになります。

であるなら、ある質問や問題があるとして、その内側で隅々をいくら探したところで、答えや解決方法は見つかりません。でも、質問(問題)を外側からみると、あるいはより高い次元からみると、それは質問(問題)ではなかったということが分かります

具体的にいえば、探求者は悟りたいという問題をかかえ、すでに悟りが起こった人に「どうすれば悟ることができますか?」と問います。しかし、悟りたいと思っている探求者のその自我は知覚が産み出した幻想です。そうであるなら、幻想である自我が抱えている「悟りたいという問題」もまた幻想でしかありません。

悟りとは、この幻想が消えることですから、悟りが起こった人物のより高い次元の観点では、それは問い(問題)ではないのです。ゆえに覚者(悟りが起こった人)は、この問いにたいして「悟りたいと思っているのは誰ですか?(=悟りたいと思っているあなたのその自我の正体はなんですか?)」と問い返します。すなわち、問いではないものに答えはなく、可能なのは、その問いが幻想であることに気づいてもらうことだけです。

探究の終わりとは、すべてが分かるということではありません。知りたいことがなくなるということでもありません。探究が終わるのは、探究している人がいなくなるから、つまり、探究している人が、その探究をしているつもりの自分の自我というものは幻想であることに気づいてしまうからです。

すべてのことは、このことと同様です。ですから、どんな問題も、それより高い次元からみれば問題ではなく、ただ原因と結果がその中に暗号のように織り込まれているだけであるといえます。

小流というのは言ってみれば、人生という大きな流れに存在している個々の問題をより高い次元から観察したときにみえてくる因果関係の自然な流れです。この、より高い次元から問題を観察するということを、もっとシンプルにいえば、「状況から少し距離を置く」ということになります。

周囲の世界とバランスの取れた状態になったら、小流にただ従うだけでよい。あなた自身を導こうとするたくさんのサインを見かけるだろう。状況から少し距離を置き、参加者ではなく外から見守る観察者になる。

次回の記事は、この最後の引用文にでてくる「サイン」「状況から少し距離を置く」ということについて書いていきます。今回はだいぶ長い記事になってしまいました。最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


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