見出し画像

リアリティ・トランサーフィンの考察⑲『夢見の話から』

人間は誰でも睡眠中に夢を見ますが、夢とはいったいなんなのかについては、いまでもまだ十分には分かっていないようです。

一般的には、睡眠中に脳が記憶を整理して定着させたり、感情を処理してストレスを解消したりするために夢を見るのだろう、と考えられているようですが、神秘主義思想においては、人は睡眠中にアストラル体が肉体を抜け出して、アストラル界を旅している(アストラルトリップ)とも言われています。見る夢のすべてがそうだとは言いませんが、わたしもアストラルトリップ説を基本的に支持しています。

ヴァジム・ゼランドは、夢を見ることは、まぼろしを見ることではないと言っています。これはつまり、夢見空間で起こる出来事もひとつの現実であるという意味の主張になります。

ゼランドの提唱するバリアント空間のモデルにおいては、夢見の空間もこのバリアント空間に含まれています。わたしの考えでも、アストラル界もまたバリアント空間の中に存在していますから、ここでの夢見の話はアストラルトリップのことと考えてもらってもよいでしょう。

起きて生活しているとき人は自分の人生ライン上の物質化されているセクターにいて、そこから隣接する(=次に現実化される可能性が高い)セクターへと移動しています。

現在いるセクターから遠く離れたところに存在しているセクターは、その人の現実においては物質化される可能性が低いといえます。世界中の誰の現在地からも遠く離れたセクターは物質化される可能性はほぼゼロで、その中には物理法則や因果関係から逸脱している破茶滅茶なデータも存在しています。夢見空間のセクターも多くはこうした物質化されない領域にあるのでしょう。

夢の中では物理法則を無視したような出来事が起きたり、なんの脈絡もなく場面が変わったりするものですが、それは、夢を見ているときには理性(顕在意識)のコントロールが弱まっているため(潜在意識)がこうした物質化される見込みのないセクターまで自由に旅することができるからだ、とゼランドは説明します。

なるほど、そうであるなら、起きて生活しているときだって理性が弱まりさえすればどんなことだって実現(物質化)するのではないか? という風に考えることができますね。原理的にはそうなります。たとえばイエス・キリストが起こしたとされている数々の奇跡は、この原理にもとづいているのですが、それについては次回の記事でくわしく触れたいと思います。

しかし実際には、わたしたちにはイエスのように水をワインに変えたり、水の上を歩いたりはできません(すくなくとも、わたしには無理です)。その理由は、いま見てきたように、わたしたちは理性と強く一体化しているからです。社会常識や物理法則への理解といった知識は理性の一部となっていますから、悟りの領域といわれる意識レベル700で計測されるような賢者でさえ、物理法則を無視できるほどには理性から自由にはなれていないというのが真相です。

ちなみに、イエスやゴータマ・シッダールタは意識レベル1000で計測されます。意識レベル1000は人間が肉体をもって到達可能な意識レベルの上限値とされていますが、このレベルになると物理法則すら超越できるということになります。

また、物理法則や因果関係を理性が無視できないということは、ものごとが起きるとしても、物理法則や因果関係に従う形でしか起きないということも言えます。言い換えると、ものごとが起きるためには適切な順序と時間が必要ということです。

これは先にも触れた、人は物質化されているセクターから隣接するセクターへと移動している、という説明と同じことを表しているといえますが、つまるところ、理性にはこのような移動の仕方しかできないということになります。

いっぽうで、稀にではありますが、思いもよらない出来事が起こったり、突然の幸運や不幸がやってくることもあります。こういうケースでは、夢の中ほどではないにしても、いまいるセクターから比較的遠くにあるセクターへと移動したと考えられます。

そして、夢の中で魂が自由にバリアント空間を飛び回るように、起きている現実においても、このような遠くのセクターへのジャンプをさせるのは魂の仕業によるものだと考えることができるでしょう。

今回の記事ではまずこれらのことをじっくり咀嚼してみてください。ポイントとしては、理性も魂も、やり方やできることは違うものの、それぞれ物質的現実を創造しているということです。

ここまで読まれた方は、おそらく魂がなにか鍵を握っているのだろうな? と感じていることでしょう。それは、その通りです。

そして、第1巻の内容が頭に入っていれば、セクターを一つひとつ渡り歩いていく理性の歩み方というのは、振り子や平衡力のせいで、実際にはもっと大変だろうなというようなこともイメージできるかと思います。

また、お気づきでしょうが、ここではまだ願望ということは登場していません。これらの枠組みに願望というものを持ち込んでみたら、どうなるでしょうか? たまたまその願望が、いまいる現在地のセクター内で実現できるような「軽い」ものだったら、どうでしょうか? あるいは、願望といえば普通そうであるように、いまいるセクターからは実現の可能性を想像することさえできないほど「遠い」ものの場合はどうでしょう?

そこではなにが働くのでしょうか? あるいは、なにが働く必要があるのでしょうか? その答えとなるものが「意図」です。この続きは、次回の記事で考えていきましょう。

夢の話から入っていきましたが、ちなみにゼランドは夢をサインにすることはできないと言っています。

きっとあなたはこれまで述べてきたことからすれば、夢は迫り来ることがらの前兆になるはずだと思っていたことだろう。しかし、トランサーフィンにおける夢というのは、前章で述べたサインとして考察することはできない

夢は、過去や未来において起こり得た(起こり得る)ことを示してくれる。過去について、私たちは知っている。未来は、バリアントの空間では非常に多様であるから、私たちが夢で見たことが、まさにこちらに迫り来る現実化される予定のセクターであるという保証は何もない

(中略)

夢で見たセクターが今いるラインから本当に近い場所に位置しているかどうかについて、保証することはできない

現実の生活では、魂は現在いる人生ラインか、または近づきつつある流れのカーブに対して、快か不快かを示す。ほかのサインは現実化された今いるセクターや近接するセクターに関するものだ。しかしながら、夢の中で魂がどこを飛びまわっているかは、神のみぞ知るである。魂はどこでも好きなところへと飛んで行けるため、その情報を当てにしてはならない

「願望実現の法則」リアリティ・トランサーフィン〈2〉魂の快/不快の選択
ヴァジム・ゼランド著(以降の引用文も同じ)

いわゆる正夢とか予知夢というものがありますが、これらは夢の中で、まだ現実化されていないセクターの情報をみてきたということになるでしょう。でも、それは結果として夢のとおりのことが起こったから正夢だった、予知夢だったといえるわけで、実際には数ある夢のどれが正夢で、どれが予知夢なのかは普通は分からないわけです。

ですから、夢で見たことを覚えておくことはよいかもしれませんが、それをサインとして当てにして、なんらかの判断を行ってはいけないということですね。

なお、オマケですが、ゼランドはこんなことも書いています。実は、わたしも寝るときは北枕にしています。これはどの本だったか忘れてしまいましたが、なにかで読んで以来ずっとそうしています。

もしあなたが夢に見たことを思い出せないのであれば、寝ている方角を確かめてみよう。頭を北に向けて眠る方がよい。西に向けて眠ってはいけない。これは健康にも有害だ。それがなぜなのか私には説明できないが、地球の磁場と関係があるのだろう。頭を北に向けて寝てみよう。夢が面白く、色鮮やかなもになることを実感するだろう。

それでは今回はここまでになります。読んでくださって、ありがとうございました。

記事へのリアクションや記事執筆への励ましのサポートありがたく頂戴します🙏 また、プロフィールにAmazonほしいものリストも掲載しています。こちらもぜひよろしくお願いします!