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リアリティ・トランサーフィンの考察⑨『過剰ポテンシャルを産みだすパターン続きの続き』

前々回からの続きになります。

前回の記事で『罪悪感』についてとりあげました。その項目で引用した文章にて「許しを請う」ということについて触れられていましたが、あわてて投稿したため、この箇所にコメントするのを忘れていました。元記事を訂正しようかと思ったんですが、すでに読まれた方もおられるのでこちらに追記します。

人は罪の過剰ポテンシャルを消し散らそうとして、ある興味深い方法を考えついた。それは許しを請うことである。これは本当に効果がある。もし人が罪悪感を持っているとしたら、その人はネガティブなエネルギーを維持しようとして、過剰ポテンシャルを溜め込む。許しを請うことで、人は過剰ポテンシャルを放出し、エネルギーが徐々に消えてゆくことを可能にする。許しを請うこと、自分の過ちを認めること、罪の許しを神に祈ること、懺悔することなど、これらすべては罪のポテンシャルから解放される方法である。

「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン―幸運の波/不運の波の選択
ヴァジム・ゼランド著(以降の引用もすべて同じ)
※太字はわたしによる強調です

懺悔はキリスト教徒の人々にとっては習慣になっているかもしれませんが、日本では一般的ではありません。個人的な印象では、欧米の人たちは、日常的なところで自分から非を認めて謝るということはあまりないという気がします。その代わりというわけなのかどうかは分かりませんが、神に懺悔して許しを請うことで、過剰ポテンシャルを放出してバランスを取っているのかもしれませんね。

ゼランドが言うように許しを請うことで過剰ポテンシャルが放出されるのであるなら、ここで言われている罪悪感とは「悪いことをしてしまったとは分かっているけれども、非を認めず、謝罪もしない」というところから生まれてくる感情だということが分かります。非を認めず謝罪しないことによって、そこでエネルギーの動きを止めてしまっているため、そのエネルギーの淀みが過剰ポテンシャルとなるわけです。

すこし話がそれますが、ホ・オポノポノ(ここではセルフ・アイデンティティー・スルー・ホ・オポノポノ SITH という、古来からのハワイアンの教えを現代風にアレンジしたものを指しています)では記憶の中に存在する問題をクリーニングするために以下の4つの言葉を繰り返し唱えます。

  • ごめんなさい(I'm sorry)

  • どうか許してください(Please forgive me)

  • 愛しています(I love you)

  • ありがとう(I thank you)

これらの言葉は神にたいしてではなく、ウニヒピリ(潜在意識)にたいして唱えるものとされているようですが、ニュアンスとしては懺悔に近いものがありますね。わたしの観点では、これはバクティ・ヨーガ(帰依のヨーガ、明け渡しのヨーガ)にも通ずるものがあります。

人間の知覚は、全体から部分を取り出してそこに着目する(焦点化する)ことによってしか事物を認識できません

それゆえ人間は本質的に、ものごとを100%把握して理解することができません。つまり、人間はどうしたって間違う生き物なのです。バクティが神への明け渡しを要求するのは、人間の業の不完全さを認め、すべてを神に任せなさいということです。ウニヒピリに捧げる4つの言葉もこれと同じことなんだとわたしは思います。神か潜在意識かという違いには意味はありません。なぜなら、神とは外側ではなく自らの内側にあるものだからです。

ちょっと脱線してしまいましたが、このように、許しを請うということは他の角度からみても非常に重要なことだといえます。もちろん、誰かに悪いことをしたときには、その相手に直接謝ることが一番ですよ。

さて続きます。

お金

お金がどんどん少なくなるという不安に屈するということは、特に危険である。恐怖とはエネルギーが最も多く充填された感情であるため、お金を失ったり稼がなかったりする恐怖をいだいているあなたは、よりによって最短のルートで、本当にお金がどんどん少なくなっていく人生ラインへと自分を移動させていることになる。

人が生きる上で直面する問題の多くはお金に関係していますね。それはつまり、お金が様々な形で過剰ポテンシャルを産みだしている、あるいは破壊的な振り子とお金が結びついている、ということを意味しています。

なかでも直接的なのは、お金がなくなる、という不安です。なくなるというより、すでにお金がない、ということももちろんありますが、不思議なことにお金がないときはないで、開き直れるというか、じたばたしてもしょうがないという気持ちになる(わたしはなった)ものです。

不安というものの本質は、まだ起きていないことへの恐怖です。起きたら困るようなこと、起きたらどうなってしまうか想像もつかないようなこと、を人は恐れます。ほんとうは、起きてもいない未来のことに気を揉んでも仕方がありません。今できるだけのことをやって、打てるだけの手を打って、あとは野となれ山となれ、が正解なんですが、なかなかそうはいかないものですね。

そして、お金を失う恐怖が発散する周波数は、ほんとうにお金を失ってしまうような人生ラインへとあなたを誘導してしまいます。ほらみろ、心配していたことが起こったじゃないか! でも、それを起こしたのは他ならぬあなただということです。

では、どうすればいいでしょうか?

まず手始めに、感情を鎮め、今あなたが持っているもので満足するよう気持ちを切り替えよう。もっと貧乏になる可能性もあり得ることを、常に念頭に置いておこう。お金を手に入れたいという願望を諦める必要はない。しかし、お金があなたの方へ川のように押し寄せてこないうちは、心穏やかに接していることだけが必要なのだ。

満足する、足ることを知るのはどんな状況においても、過剰ポテンシャルを産みださない秘訣といえます。満足することを覚えれば、仮にいまよりお金が少なくなったとしても、それでもなんとかなるだろうと心穏やかにしていられますね。逆にいえば『足りない!』という思考が曲者なんですね。

次はお金と振り子の関係性についてです。

多くの振り子が、信奉者たちとの万能の決済手段としてお金を利用している。まさに振り子の活動こそが、お金全般への無分別な崇拝へと導く。お金を用いることで、物質的世界における自己の存在が保障される。ほぼすべてのものが売買されている。どの振り子を選ぼうが、すべての振り子がお金で決済してくれる。ここに危険が潜んでいる。疑似餌のきらめきに喰らいついたが最後、あっという間にあなたの幸福からほど遠い人生ラインへと方向転換を余儀なくされる。

会社で仕事をして給料をもらう、ということをエネルギー的にみれば、振り子に奉仕して、その報酬をお金でもらうということになります。しかしもちろん、お金をもらい続けるためには振り子に奉仕し続けなくてはなりません。その間ずっと、あなたは振り子にエネルギーを捧げつづけるということは受け入れるしかありません。

破壊的な振り子は信奉者を引き寄せるために法外なお金を支払うとうけあいます。闇バイトは強盗詐欺グループという凶悪な振り子がチラつかせてくる疑似餌というわけです。

次はちょっと長いです。

お金は、目的でも目的達成の手段でもなく、随伴する属性に過ぎない。人が人生から求めているものが目的である

(中略)

お金を得るために本来の目的とは無縁の振り子のために働くことで、)お金の詰まった袋を得ることは、非常に困難か、またはほぼ不可能である。そのため、お金も得られないし目的も達成されなくなってしまう。そうならないはずがない。なぜなら、思考エネルギーの放射は、本当の目的の代わりに、取ってつけたような代替品に向けられるように調整されているからだ。」
(中略)
望むものを達成するためには、目的について考えるのであって、富めることを考えてはならない。お金は随伴する属性に過ぎないのだから、自分で近寄ってくる。これは単純なことである。

(中略)

大金持ちになることができるのは、自分の目的について考えている人だけであって、富めることについて考えている人ではない。大部分の人は、逆の行動をする。自分本来の目的ではない他人の目的のために仕えるか、目的をうわべだけの代替品にすりかえるか、それとも、金持ちになるという達成され得ぬ条件のために目的をすっかり断念するかのどちらかである。

要は、自分本来の人生上の目的とは関係のない振り子のために働いてもお金持ちにはなれないということです。お金持ちではないどころか、お金を稼ぐ能力からもっと遠いところに鎮座しているわたしがどうこう論じられるテーマではありませんが、言われているところは分かります。

もっとも、大金持ちということではないですが、自分の目的とは無縁の振り子に割り切って仕えることで、ある程度の収入を得るということは可能でしょう。それがいいか悪いかは別のことですけれども、ほとんどの人がそうしているともいえます。ただ、一流企業という振り子に仕えても、その企業のオーナーにでもならない限りは、お金持ちにはなれても大金持ちにはなれないのも事実です。

そしてまた、自分の目的にかなった振り子とつきあってそれで生活していけるなら、別に大金持ちになれなくてもよいのではないかと、わたしなら考えます。

お金に動きがあるよう合理的に使う必要がある。動きのないところでは、ポテンシャルが発生する。お金持ちたちは理由もなく慈善事業に参加しているわけではない。彼らは蓄積された富の過剰ポテンシャルを低減させているのである

これはなかなか鋭い指摘かもしれません。お金を貯めるだけ貯めてちっとも使わない(お金を動かさない)と過剰ポテンシャルが発生するというのは、確かにそうでしょう。これを解消させるために平衡力はどうするでしょうか? 守銭奴と呼ばれているような人物が命を狙われたり、人知れず孤独死していたというような話はなんとなく聞いたことがあるような気がしますが……。


完璧主義

過剰ポテンシャルを産みだすパターンの最後は「完璧主義」です。

すべてにおいて完璧にしようとする意欲は、一部の人々の頭からこびりついて離れなくなっている。このような人々の人生は闘いの連続となる。では何と戦うのだろうか? もちろん平衡力とである。いたるところで完璧にしようとする目標設定が行われ、すべてにおいてエネルギーレベルでの紛糾ふんきゅう化がおこる。なぜなら評価の変位が避けられず、その結果として過剰ポテンシャルが発生するからである。

わたしも若いときはちょっと完璧主義的な傾向がありました。たとえば仕事において、完璧を目指すのと、完成を目指すのは似ているようでまったく違います。細部にこだわるか、全体を大切にするか、ということともいえますが、完璧さにはゴールはなく、細部を見はじめるとキリがありません。仕事であれ、その場その場の一挙手一投足であれ、全体として完成、完結さえしていればその都度それでよしとしなければ、なにごとも進んでいきませんね。

完璧主義をトランサーフィンの観点からみると、そこには評価の変位が避けられないものとしてあることが分かります。評価の変位とは、評価の基準が適切なところからズレてしまうということです。簡単にいえばハードルを上げすぎてしまうということ。これによって過剰ポテンシャルが発生し、平衡力によるちゃぶ台返しを招くというわけですね。

理想主義者は自分だけでなく、他者にも要求を突きつける

完璧主義は理想化の行き過ぎた一例です。自らに完璧さを課す人は、ついつい他人にも完璧であることを求めてしまいがちです。これも過剰ポテンシャルを産みますね。

私たちは皆この世界では客人であり、各々は自分の道を選ぶことは自由であるが、他人を裁き、判決を下し、烙印を押すなどの権利は誰ももっていない(刑法を除く)。

非二元などスピリチュアルの文脈でも、他人を裁かないことについてよく言及されます。わたしの観点では、すべては一つですから、自分も他者もおなじ一つのものです。であるなら、他人を裁くことは自分を裁いていることになります。他者に対してやったことが自分に返ってくる、とよく言いますが、それも同じで、他者への行いは自分への行いです。ただ、この物質的な世界においては物事が起きるのには順番があり、またそのための時間も必要です。このためやったことが(遅れて)返ってくるように見えるのです。

すなわち、自分の完璧主義のモノサシで他人を評価してしまうと、それはいずれ自分への厳しい評価として返ってくるでしょう。これも、過剰ポテンシャルと平衡力のメカニズムでうまく説明できていますね。

さて、これでようやく過剰ポテンシャルを産みだすパターンとして挙げられている要素をすべてとりあげることができました。次回はこれまでに挙げてきたことの本質はなんなのか? というお話になります。過剰ポテンシャルについてのまとめと言ってもよいと思います。


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