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リアリティ・トランサーフィンの考察⑳『願望と意図の違いを理解する』

雨降りは好きではないんですけど、ここ数年は梅雨入りすると体調がよくなってくるパターンが続いています。春は花粉や黄砂の影響でずっと鼻がつまっていて微熱もあったりで辛かったんですが、ようやくすっきりしてきました。

わたしは周期やサイクルというものをわりと意識して生きています。あらゆるものごとの本質は回転運動だと考えているのですが、たとえば原子の中では電子がそれ自体スピン(自転)しながら原子核のまわりを回転(公転)しています。これはそっくりそのまま、太陽のまわりを惑星が回転している様子と同じですし、太陽系も銀河系の中心を公転しています。また、人間の体内では血液やリンパ液が循環していますが、これも一種の回転運動といえます。

回転運動を時間軸に沿って表現すると、それは螺旋を描きます。すなわち、周期(サイクル)の本質はこの螺旋です。どんなこともある一定の周期で変転していますが、同じ回転をずっと続けているわけではなく、時間に沿って螺旋を描いて回転していますから、それぞれの周期は本質的には同じでも、見かけは変化していきます。

たとえばファッションではむかし流行ったスタイルがリバイバルすることがよくありますが、最初に流行った当時のスタイルそのままではなく、新たな要素が加わっていたり、ちょっと解釈が変わっていたりしますね。そんな風に、変わらないところと変わるところの両方に着目することが、様々なサイクルからなにかを読み取ったり、自分の人生からサイクルを見出したりするうえでのコツになります。

トランサーフィンを十何年前に読んで、いま再びそれを手にとって今度はその内容を記事にしていることも、そんなサイクルの一つだなあと思いながら書いています。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、前回の記事でこんなことを書きました。

また、お気づきでしょうが、ここではまだ願望ということは登場していません。これらの枠組みに願望というものを持ち込んでみたら、どうなるでしょうか? たまたまその願望が、いまいる現在地のセクター内で実現できるような「軽い」ものだったら、どうでしょうか? あるいは、願望といえば普通そうであるように、いまいるセクターからは実現の可能性を想像することさえできないほど「遠い」ものの場合はどうでしょう?
そこではなにが働くのでしょうか? あるいは、なにが働く必要があるのでしょうか? その答えとなるものが「意図」です。この続きは、次回の記事で考えていきましょう。

前回の記事では願望ということをひとまず考慮せず、日常の繰り返しが続いていくパターン(あるセクターから隣接しているセクターへの移動)と、思いがけないことが起きるパターン(遠くのセクターへジャンプする)について見ていきました。具体的な願望というものを特に意識していなかったとしても、人生はこの二つのパターンを織り交ぜながら進んでいくものです。

しかし実際には、そのような人生においても、明確にそれと認識していないだけで、いくつもの願望が実現していたり、していなかったりしているはずであることは、おわかりいただけるでしょうか?

一口に願望といっても、「おいしいハンバーグが食べたい」とか「景色のいいところに旅行に行きたい」とかいったものから、「ユーチューバーになって年収1億稼ぎたい」というようなものまで実にさまざまです。ところがいわゆる願望実現法の類が扱っている願望とは、この例のなかでいえば最後のユーチューバーになりたいというものくらいです。

おいしいハンバーグが食べたいなら、ネットで評判のよいお店を探して食べに行けばよいわけですので、そこに願望実現法は必要ありません。景色のいいところに旅行に行きたいのであれば、旅行にかかる費用を捻出して、あとは休みをとって出かけるだけです。これにも願望実現法は不要ですね。

じゃあ、「おいしいハンバーグが食べたい」と「景色のいいところに旅行に行きたい」は願望ではないのでしょうか? そんなことはありませんね。これらも立派な願望であることは間違いありません。

そして、こういう願望が、いまいる現在地のセクターで実現できる「軽い」願望です。ひとつのセクターの中で実現できるということは、そのとき置かれている状況の中に、その願望を実現するための条件が揃っているということです。ちょっと調べれば近場に美味しいハンバーグ屋さんが見つかり、そこで食事するくらいの金銭的な余裕がそのときあるのなら、「行って食べてくる」だけですね。そういうことです。

景色のいいところに旅行に行きたいけれども、行ってみたいのは石垣島で、そうなると夏のボーナスまでは頑張って働いて、秋口にならまとまった休暇を取れるかな、という感じだとします。このときは現在地のセクター、つまり現在の状況ではすぐに実現はできませんが、ちょっとした条件を揃えれば可能になるわけです。これは、隣接するセクターまで頑張って移動して、そこで実現させるという風に考えられます。

いずれのケースでも、これは願望は願望なのですが、本人にとってそれらを実現させることは、ちっとも困難ではありません。ユーチューバーの話だと、「はあ、ユーチューバーになって億稼げたらなあ……」などと考えながらため息をついたりするかもしれませんが、「おいしいハンバーグが食べられたら最高なんだがなあ……」とため息をつくことはないですね。

ここのところがポイントなのですが、いわゆる願望というのは「はあ、ユーチューバーになって億稼げたらなあ……」という、これのことなのです。もちろん、「おいしいハンバーグが食べられたら最高なんだがなあ……」も同じ意味で願望なのですが、実際には「よし、ちょっと店をみつけて食べに行くぞ!」となるわけです。

この、「よし、ちょっと店をみつけて食べに行くぞ!」というものは願望ではなく意図です。

秘密は、現実化へと導くのが願望自体ではなく、望んでいるものに対する心構えにあるという点に隠されている。働いているのは、望んでいるものについての思考自体ではなくて、ほかのものである。

「願望実現の法則」リアリティ・トランサーフィン〈2〉魂の快/不快の選択
ヴァジム・ゼランド著(以降の引用文も同じ)

願望とは願い望むことです。なにかが欲しい、なにかをしたい、なにかになりたい、という思考が願望です。しかし、願望を結果として実現させるのは「欲しい、したい、なりたい」という思考ではなく、「所有しよう、やってみよう、なってやろう」という意図ほかのものです。ゼランドはこの意図について、「所有し行動する決意」と定義しています。願望が行動に結びつくとき、そこには意図が介在します。

前々回の記事で「願望は実現しない」と書きましたが、それはこういうことでした。つまり、願望は願望そのままでは実現せず、願望が意図に変わったとき、その意図が実現する(現実化する)ということです。


現実化するのは願望ではなく、意図である

上の方で、明確に意識していないような願望も叶っていたりすると書きましたが、そこで働いていたのは意図です。ものごとが現実化するためには意図が不可欠ですが、願望はそこになくてもよいのです。ここのところが肝心です。意図にはなんらかの目的があるわけですが、願望とは重要性によって過剰ポテンシャルとなった目的のことだと考えてください。この場合の願望はめちゃめちゃ望んでいるけれど実現の見込みは薄そうな重い願望のことです。そうしてみると、先ほど例にあげたハンバーグや旅行は、じつは願望ではなく単なる目的だった、という風に思えてきますね。

ちなみに今後も記事では願望を願望とそのまま書くこともあれば、目的と書くこともありますが、願望から重要性を取り去って純化させたものが目的だというふうに捉えてください。

※わたしによる注釈

これですこし分かりやすくなったと思います。要するに、なんであれ目的を現実化するには意図することが必要ということです。そして、願望という過剰ポテンシャルによって重くなった目的に対しては意図を働かせることが難しいということも、ここで指摘しておきましょう。

ところで、ハンバーグや旅行といった目的はいずれも、いまいるセクターの状況のなかで自分の力でなんとかしようという意図が働いて実現されますね。それでは、目的が現在地から遠く離れたセクターでしか現実化されない場合はどのような意図が必要なのでしょうか?

意図とは、願望に行動が結びついたものだ。自分の力で何かを行うという意図は誰でも知っているが、これを内的意図という。意図の作用を外部世界へ及ぼすことはずっと難しい。これを行うのは外的意図という。外的意図を利用すれば、世界をコントロールすることが可能だ。正確にいうと、取り巻く世界のふるまい方のモデルを選択する、または、シナリオを舞台装置を決める、ということだ

ここでようやく外的意図という言葉が登場します。

ここまで説明してきた意図は内的意図のほうです。内的意図と外的意図の違いについてゼランドはさらに、以下のように説明しています。

内的意図は、同じ人生ライン上において、取り巻く世界に作用を及ぼそうとするあらゆる試みに関係する。バリアントの空間において選択されたそれぞれのセクター内で可能なことはすべて、自然科学の著名な法則によって表され、物質的世界観の枠内に収まる。一方、外的意図は、望んでいることが現実化される人生ラインを選ぼうとすることと関係している

これをちょっと別のたとえを用いていうなら、内的意図とはいまいるこの世界線の中でやれることをやる、という意図です。外的意図はそれとは違って、世界線そのものを移動しようという意図になります。

前回の記事で、イエス・キリストの起こした奇跡についてちょっと触れましたが、ここでイエスが水の上を歩いたという話を外的意図で説明してみましょう。

聖書の記述が真実であるなら、イエスはたしかに奇跡を起こせました。しかし、実はイエスといえども内的意図を用いて物理法則を捻じ曲げることはできないのです。なぜなら、内的意図はすでに物理法則に従って物質化されているセクターの中で可能なことをする意図だからです。ですから、イエスが水の上を歩いたとき、彼の身体が引力に逆らう力を発していたというわけではありません。

ではイエスは具体的にどのように水の上を歩いたかというと、こうなります。まず、イエスの身体が水面よりわずかに上に位置しているセクターを現実化します。そして、そのままでは水に落ちてしまいますから、やはり水の上にあって、そこからほんのすこしだけ移動した位置にイエスの身体があるセクターを間髪入れずに現実化させます。この調子で映画のフィルムのように1秒間に何十ものセクターも連続して現実化させれば、まるでイエスが水の上を歩いているかのように、弟子たちには見えたことでしょう。

本当にそうだったかはわたしにも分かりませんが、このときイエスが行ったのは、普通なら現実化されない領域に存在しているセクターを選択し、それを連続的に現実化させたということです。これらのセクターもいったん現実化されてしまうとそこには物理法則が働きますから、現実化させた瞬間にはもうイエスの身体は引力に支配されています。しかし、イエスの外的意図は強力なので、実際に身体が落下しはじめるより前に、次のセクターを現実化させているのです。

同様に、コップの中の水を超能力的ななにかによってワインへと変質させるのではなく、コップの中にワインが入っている世界線へと移動したというわけです。

もちろん、イエスのように瞬時にセクター(世界線)を移動させることは誰にでもできるものではありません。というより、ほとんど誰にもできません。しかし、外的意図をしっかりと理解して、それを適切に働かせることができれば、時間はかかるとしても本人にとっては奇跡と思えるようなことまで実現できるようになるかもしれません。

魔法とされているもののすべては、ほかでもない外的意図を働かせようとした企て(くわだて)である
(中略)
呪物、呪文、その他魔術に使う道具などは、それ自体としてはどんな力も持っていない。外的意図の力は、そうしたものの属性を用いる人々に備わっている。この属性は、発育が遅れてまどろんでいる外的意図の退化器官にスイッチを入れるよう潜在意識をある程度手助けするだけなのだ。属性の持つ魔力を信じることで、外的意図を目覚めさせるための刺激が与えられる。

魔法を学びましょうというつもりではありませんが、興味深いので引用しました。ここから読み取れるのは、古くから外的意図の力について知っていた人々がいたということですね。そして、魔法(外的意図)を使うために呪物や呪文やその他の道具が必要ということは、外的意図を純粋に使いこなすことはやはり相当に難しいということも示唆しているようです。漫画やアニメで呪文の詠唱なしに魔法を放てるのは相当な実力者であるというような描写を見ることがありますが、これを読むとなるほどなあとなりますね😌

さて、今回は必要なのは願望ではなく意図であるということと、意図には内的意図と外的意図の二種類があるということをみていきました。最後に、内的意図と外的意図を比較した表を作ってみたので掲載しておきます。この表は今後の記事でも必要に応じて使う予定ですが、まずはここまでの説明と照らし合わせながら眺めてみてください。それでは今回はここまでです。読んでくださってありがとうございました🙂


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