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『完全無――超越タナトフォビア』

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哲学における究極の未解決問題「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」を解決するとともに、タナトフォビアで苦しんでいた過去の自分を、四年掛かりで自ら救った、新しい思想を総括するマ… もっと読む
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#形而上学

『完全無――超越タナトフォビア』第百五章

(そしてそしてさらにさらにきつねくん、つまりわたくしは、ゆっくり足早に駆け抜けることを許…

『完全無――超越タナトフォビア』第百四章

ウィッシュボーン 「きつねさん!  ご誕生おめでとうございます! 想い出された誕生の瞬間、…

『完全無――超越タナトフォビア』第百一章

西田幾多郎の哲学における「絶対無」のような無の場所としての動的無限性の極地、それは人間た…

『完全無――超越タナトフォビア』第百章

突然ではあるが、第九十章のポエムのリプライズならぬ、紳士で真摯なリメイク版をここでお届け…

『完全無――超越タナトフォビア』第九十九章

ウィッシュ 「モナドは絶対に窓を持ちませんが、ミスドは窓を持つ場合があるということでしょ…

『完全無――超越タナトフォビア』第九十八章

さてチビたち、話を少し曲げさせてもらおう。 しっぽのないきつねであるわたくしは、何かと紆…

『完全無――超越タナトフォビア』第九十七章

なぜ「何か」があるのか、ということの答えとは、要するに完全無と完全有との齟齬が根源的に関わっている、というそのことであろう。 なぜなら、完全無という世界こそが主体的に「何か」である、という言い分だけを取り出してみせるなら、それは極めて粗暴かつ奇天烈な定義だと勘繰ることができるからだ。 完全無であれ、完全有であれ、主体になる何ものかを定義することは実はとてつもなく不可思議な行為なのだ。 それは、もとより状態や性質をあらわすことが世界そのものにおいては不可能であること、とリ

完全無――超越タナトフォビア』第九十六章

さて、人間たちは完全無を理想化することで単なる有を完全有として認識したがっているとも言え…

『完全無――超越タナトフォビア』第九十章

人間たちはもはやことばを選べない。 猿の時代へと還ることもできない。 本当に戻れないのだ…

『完全無――超越タナトフォビア』第八十九章

無がいくら無限の連珠のように連なろうとも、それは空間とは成り得ず、時間とは成り得ないので…

『完全無――超越タナトフォビア』第七十八章

この章では、ヒト科という存在者に(諸説あれど一般的に普及している説によると)特有の能力と…

『完全無――超越タナトフォビア』第七十六章

(この章は、わたくしきつねくんという実在のキャラクターによる、ノンフィクショナルな語りの…

『完全無――超越タナトフォビア』第七十四章

さて、再度このテーマについて噛み砕こう。 消失し得ない存在について。 安易な第一歩こそ肝…

『完全無――超越タナトフォビア』第七十二章

たとえば、宇宙に遍満する無数の粒や波、それらに最低限の大きさや振幅があろうとなかろうと、何かしらの働きを成す現象としての粒や波は、生命としての存在者が死して無数の散開存在者となり、分裂的に漂う「可能性の風」として新たに生成するために、穏やかな顔で宇宙に待機している間、闇に潜める不可能性から自由に振舞うべき寵児として、つまり、生成し生成されるものとしての主体的存在者として生まれ変わるために、宇宙の中でエネルギーを得るために、宇宙の摂理と何らかの交感に酔い痴れている最中なのかもし