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『完全無――超越タナトフォビア』

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哲学における究極の未解決問題「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」を解決するとともに、タナトフォビアで苦しんでいた過去の自分を、四年掛かりで自ら救った、新しい思想を総括するマ… もっと読む
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#完全無

『完全無――超越タナトフォビア』第百十六章

無から有は生まれない。 有から無は生まれない。 しかし、有は無い。 完全無。 それだ! ちょ…

『完全無――超越タナトフォビア』第百十五章

ところで、この作品は存在しない。 輪郭がないのにそこだけくり抜かれたかのように、この作…

『完全無――超越タナトフォビア』第百十四章

たまには章ごとにサブタイトルでも付してみようかと思い立ったのだが、たとえば、「空も中道も…

『完全無――超越タナトフォビア』第百十三章

えげつないほどに奇妙かもしれないが、無の連結が運動を生み、それを有の連続として捉えてしま…

『完全無――超越タナトフォビア』第百十ニ章

分子と分子、クォークと反クォークとの間には何も「ない」わけではない。 何かが何かと引き合…

『完全無――超越タナトフォビア』第百十一章

(ここでチビが発現すると同時に発言する。 それにしたってガンジスの河岸の砂の数を数え終わ…

『完全無――超越タナトフォビア』第百十章

神は妄想である、と書いた正統ダーウィニスト的有名人、いや英国の進化生物学者がいたが、世界に対する科学的解明による手続きの、その翳で甘やかに育まれた科学的現象の定義、という信条も同じく完全なる客観的正義ではない。 ロゴスとはおよそ世界の解読ではなくて、誤読である。 神「学」、宗教「学」、生物「学」だけに限らず、神を扱うあらゆる「学」は、ヒトの「学」であって、どこまでもヒト独り独りが垣間見る妄想である。 なぜなら、そこらに転がる石からすれば、ヒトの「学」など虚妄、いや虚妄以

『完全無――超越タナトフォビア』第百九章

ところで、答えることに意味を持たせない何ものか、それこそが世界という名をほしいままにして…

『完全無――超越タナトフォビア』第百八章

感覚によっても論理によっても示威することの難しい堅物の名が、完全無であることは確かなのだ…

『完全無――超越タナトフォビア』第百七章

この二十一世紀における開闢問題は、量子力学的解釈を除けば、無から宇宙が誕生する謂われはな…

『完全無――超越タナトフォビア』第百六章

なぜ、この作品が仏教哲学をアップグレードし得る可能性があるのか、というと、作品世界そのも…

『完全無――超越タナトフォビア』第百五章

(そしてそしてさらにさらにきつねくん、つまりわたくしは、ゆっくり足早に駆け抜けることを許…

『完全無――超越タナトフォビア』第百三章

愛、そう存在者と存在者とが愛し合う、というささやかなる領分を超えて、愛そのものとなって自…

『完全無――超越タナトフォビア』第百二章

この作品でこうしてわたくしが皆さんと出逢えたことも含めて、ハロー、なにもかもが、グッバイ、もうすでに無的に起こってしまったぜ! そう、それこそが完全有的なイメージ。 有を確固たる前提としてしまう儚くも強靭な前-最終形真理。 ニセモノの有(それは、形而下学的な前-最終形真理、すなわち、日常生活世界において科学的思考によって成立する真理)なんて屁でもないぜ、と今こそチビたち、そして読者の方々と叫び合おう。 さらに付け加えるとするならば、もうすでに起こってしまっている、とい