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家に居る自分を許すこと

 自粛期間が始まって程なくしてから、知人に「なぜいつも家に居られるの?」と聞かれた。私からすれば「なぜしょっちゅう外に出られるの?」と質問を質問で返したいくらい外<家という考えがそもそもあるのだが、この考えが一般的ではないことはわかるので自分なりに答えをあれこれと考えていた。

 在宅ワークの方々が記事やイラストにまとめているような、ハウツーがあるわけではない。しかし、私は家に居るのが苦痛になることがないのだ。むしろ外に出るのは(心理的抵抗以外の話をすると)必ずお金を使うことになるし、体力を消費するので、その時良くても必ずあとで苦痛を覚えることになる。そもそもの性格もあるのだが、他の点も踏まえて考えたとしても、私の人生では外<家にしかなり得ない。それが自分に合った生き方なのだ。

 で?何が言いたいんだ?どうしたら家に居られるわけ?と聞かれると、正直答えるのが難しい。ここまで読ませて申し訳ないのだが、これは考え方や生き方の問題が大いに含まれるので≒価値観である。さまざまな経緯があってこの考えを持っているため、Q&Aのように答えられないのだ。なので、家に居られる方法が何かを答えることはできない。ごめん!!!

 しかし、価値観がどういったものか大まかに説明をすることは可能なのではないか?と思い、回答を考えてみることにした。

※ここから先、「家に居られるハウツー」ではなく「家に居続けることに対する価値観の話」へとシフトしているので先に述べた知人と同じ境遇の方よりも仕事がなくなって家に居るという方向け。

 一つ答えになりうることを思いついた。それは「許すこと」だ。自分に対して(結果的に他人に対しても)許すこと。かなりオカルト感があってざっくりしたことを言っているようで申し訳ないと思うが、これが私の持つ価値観を一般化できる精一杯の語彙である。

 もちろん、手放しに許すということではない。私の考えるところの許すというのは、何が自分にとって許せないのか考え、それを踏まえたうえで決定できる。私にとって許せないことは生活の中に存在しないし、許せないことは避けたい条件としている。そのうえで、社会的な思想や大衆の意見、多数派の意見というものから自分を「許している」のである。この「許し」の対象となるのは私の場合、心理的側面が殆どである。(そして、好きなことやりたいことに熱中する。許せないことを避けるのなら、避けたくないことを許すのは道理としても間違っていない。)

 私は楽な方を選んでいる自分(正しくはそのように見えてしまう)を許すことができず、悩み続けた時期があった。しかし、楽=悪というのは認知バイアスに他ならない。楽=効率化を図ること とも言えるのだ。

 例えば専業主婦(夫)は楽をしているだろうか?その人たちは間接的にだが社会に関わり、それぞれのできる範囲でパートナーを支えることにより、パートナーの時間を生み出しているのである。そこに賃金が発生しなくとも、相手の仕事に対して効率化を図り、生産性を上げていることになる。目には見えないがそれは賃金と同等であると思う。専業主婦(夫)のパターンでなくとも、賃金を直接的に発生させる人を支えることは立派に労働であり、もし労働とまで思えなかったとしても事実として効率化を図っているのだ。そして、世の中の仕事というのは私の知る限り、最大限に業務効率化を図ることに他ならない。

 私がこのように考えることができるようになったのは、許せるようになったからなのだ。どんな形でも、世間一般では働いていないと思われていても、家に居続けたとしても、自分のできる範囲で誰かの効率化を図ること。それが自分にとっての仕事であり、それでいいし何も悪くないとしっかり許せるのである。(そういう点でインターネットがあって本当に良かったと思う)

※この話はあくまでも私の価値観なので、許せるのか許せないのかを踏まえたうえで参考にしていただければ幸いです。


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