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⑤「人間の科学と現象学」序論

 木田元・滝浦静雄・竹内芳郎訳;メルロ=ポンティ・コレクション「人間の科学と現象学」みすず書房 2001 


前回の記事はこちら


インテリ・レオンでは、僕が大学院時代に取り組んだもののひとつ、現象学に関する記事もあげています。

今回は「人間の科学と現象学」の序論部分。

【序論】
 もともと現象学は、単なる一学派の問題に取り組もうというのではなく、「世紀の問題」とも言えそうなものを解決せんとする試みとして登場してきたものである。「世紀の問題」とは、1900年以来全ての人に課せられてきた問題であり、今なお課せられている問題である。フッサールはそれら、すなわち「哲学の危機」と「人間に関する諸科学の危機」と「科学一般の危機」とを、同時に解決しようと試みていたのである。
 フッサールはもともと科学から哲学へ転じた人物である(最初の著書は『算術の哲学』であり、数学者であった)が、彼は幾何学や物理学の諸原理に関する独断論を真剣に問題にせざるを得なかった。
 彼の生きた当時の「人間科学(心理学・社会学・歴史学)」と「哲学」もまた、それぞれにある危機に立たされていた。「人間科学(心理学・社会学・歴史学)」はその研究が進むにつれて、あらゆる思考あらゆる意見、特にあらゆる哲学を、心理的・社会的・歴史的等外的諸条件の複合作用の結果として示そうとしていたのである。しかしこれらの諸科学は、かえっておのれの基礎を危うくする破目になった。事実、もしいろいろな志向や精神の指導原理が、いつでも精神に働きかける外的緒原因の結果に過ぎないとしたら、私が何ごとかを主張する際に拠りどころとする「理由」は、実は私の主張の本当の理由ではないことになる。私の主張には「理由」はなく、あるのはただ「原因」だけだということになろうし、その「原因」なら外から限定することも可能になってしまう。
 「哲学」に関して、哲学者が真と偽との区別をなしうるためには、彼の発言は彼にとって外的な自然的・歴史的諸条件の表現であってはならないのであって、それは精神と精神との直接的で内的な触れ合い、つまりは「内具的(そのものに本質的に備わった)」真理を表現していなければならない。しかし人間に関する諸科学の領域での進歩では、逆に精神が外的に条件づけられているのだということを主張するのであるから、そうした「内具的」真理などは到底ありそうにも思えなくなってきてしまう。

 「科学一般」や「人間の科学」や「哲学」のこうした危機は、我々を非合理主義へと向かわせる。つまり合理主義なるものも、それ自体ある種の外的諸条件から偶然生じた歴史的産物に過ぎない、と思われてくるのである。フッサールはそれらの危機を出発点とし、問題は 「哲学」と「科学一般」と「人間の科学」とを共に再び可能にし、それら諸学の基礎と合理性の基礎とを考え直すことが必要だ、と鋭く見抜いていた。また、彼は、「哲学者は人間性の公僕である」と述べている。すなわち、哲学者は人間性というものが成り立つための諸条件、言い換えればすべての人が共通な真理に与えることができるための諸条件を定義し、意識させるように定められているということである。

続く。

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