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書くこととは何か。なぜ、書かねばならないのだろうか。

書評『切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』佐々木中著 河出書房新社/2200円(税別)
 
 書くことは革命である。そう語る著者は、例のひとりにルターを挙げる。聖書を徹底的に読み込んだルターは、教皇が偉いなんて書かれていないと気づいた。そうして、数限りない本を書いた。かくして革命は起きた。宗教改革どころか、絶対的な革命そのものを引き起こしたのである、と。
 革命の本体は暴力ではなく、「テクストの変革」すなわち文字で書かれた本にあると著者は言う。人類が開発した驚くべき機械である文字を使って読み、書くというのは、革命に至るなのだ。
 だが当時の識字率は五パーセント。まして、ラテン語で記した九五箇条の提題をそのまま読めたのは一パーセントにも満たなかったはず。それでも、ルター自身の言葉で「あたかも天使自身が使者になられたかのごとく」拡がった。
 聖書を読み、聖書に準拠しようとしたルターは「書く」しかなかった。活版印刷の登場という時の運を得て九五箇条の提題が拡がり、革命が起こった。世界を変革したのだ。
 このように、世界を変革する力の根源は「読み」、「書く」ことにある。識字率一パーセント未満の世界であっても、いや、読む人がほとんどいなくとも。ニーチェの『ツァラトゥストラ』最終部、第四部は出版社に見捨てられ、自費出版で四〇部刷り、七部だけ知人に贈った。世界でたった七部であっても、ニーチェは敗北したわけではないことをわたしたちは知っている。
 「われわれがやっていることは無意味ではないのだ。絶対に無意味ではない」。そして、(言葉が)「残るほうに賭けようではないか」と著者は言う。
 ところで著者は、「藝」と書くとき、略字ではなく「藝」を使う。その理由は、「藝は、草木を植えるという意味である。芸は、草を刈る、雑草を刈るという意味」だと言う。ひとつの漢字には意味があり、それを知って使わなければならない。当たり前だが忘れていた。
 自分の名前を考えてみると、わたしの名「紀」には、しるす、書くという意味がある。ならば私は書かねばならない。いまも、これからも。読み手がいなくとも。「革命」としての言葉、何かを変える言葉を生成していくために。

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