石の女王3 完結

左利きの兄は、じりじりと後ろへさがり、身をひるがえしたかと思うと、洞窟の向こうへ姿を消した。
 三人は、無言のなかに山を下りた。


 村に帰還してから、半年後、初夏の朝に右利きの弟と青い目は結婚式を執り行った。
 二人は、婚約者を失った金の目に遠慮して、お披露目は簡素な食事会にとどめた。
 工房は、右利きの弟が一人で切り盛りした。石工としての腕はよかったし、青い目は切り盛り上手だったので、暮らしはなんとか回っていた。
 毎日はあわただしく過ぎ、二人は、小さな家を建て、やがて子供を何人か授かった。

 妹の金の目は、いままでと変わらず暮らしていた。家の仕事をし、羊を追い、薬草を取り、時々銀細工でこまごまとしたものを作った。両親が死んだ後は、弟たちの世話になった。
 金の目の作る銀細工は、いままでの村の伝統のものとはまったく違うデザインだったが、それはそれで評判がよく、そこそこの値段で売れることもあった。
花の盛りを過ぎるころまでには、何人かの男性が求婚したが、誰にも応じなかった。
そのうちに変わり者だという評判がたち、誰も、求婚する者もいなくなった。
女が銀細工をすることも「変わり者のすることだから」と次第に容認されるようになった。ときどき森に入り、山を登り、何日間もそこにとどまった。そういうときはいつも、自然の花々と草木、雲や風を木炭で布に描写しようと試みていた。
あるとき、大きな晒布に、写し取った情景を、細い銀の糸を使って刺繍してみた。それは完成までに一年を要した。まるで田園風景を写した一片の詩集のようだと、地方回りの商人が驚くような高値を付けた。
 そのお金は、村で質素に暮らすのなら丸々一年、なにもしなくても食べていけるだけの額だった。金の目は生活に追われることをやめた。山に登っては、自然の息吹に耳を傾け、銀刺繍をひと針ひと針運んだ。いつか、石の女王の渓谷で見た、命を吹き込まれるのを待つばかりの動物や草花たちを時々思い出した。自分が織りなしているこの風景も、見る人の胸の中で動いてくれればいいなと願いながら、針を運んでいた。
変わりゆくようで同じ、同じようですべて違う、そんな自然の造作を丹念に記憶に焼き付け、布の上におこしてゆくのは楽しみでもあった。

 すべてと引き換えに、これら自分たちの目に見えるものを、石に彫り刻んでいる人たちがいる。ときどき、若いころに見た石の渓谷の様子を思い出した。そして、自分には自分のできる道で、この山が山である確かなものを描き出そうとつとめた。

 右利きの弟は、相変わらず腕のいい石工だったが、もう石を読むことはできなくなっていた。
 だが、その腕前や目利きは、都の商人たちの信頼を得ていたので、暮らしにこまることはなかった。何年もの年月があっという間に過ぎた。
 初めの数年は、季節が変わる気配を察するたびに、三人は口には出さずとも山の向こうで今もこの命の原型を作り続けている左利きの兄の姿を思った。だが、だんだん不在にも慣れた。


 その夏は特別に暑かった。山の木々も、空を飛ぶ鳥も心なしか元気がなく感じられた。石工の若者がまた一人、帰ってこなくなった。
 右利きの弟と、金の目も『かつて石の女王にあったことがある者』として、その若者の捜索隊に入った。金の目は周囲の様子を観察しながらゆっくり進んでいるうちに、はぐれてしまった。
 山歩きには慣れているので、焦りは禁物だと知っていた。まずは、休み、冷静になってから、どうするかを決めよう。すぐ近くの岩に腰かけた。耳を澄ますとサラサラと水の音がどこかから聞こえてきたので辿ってみた。山を少し下ったところに、窪地があり、小さな泉が沸いていた。
 金の目は、迷わずに衣服を脱ぎ捨て冷たい水に飛び込んだ。花の盛りを過ぎているとはいえ、山歩きで鍛えられた体には無駄な肉もついてはおらず、若い頃よりは丸みがついた背中や下腹部もなだらなか曲線を描いていた。口をすすぎ、埃だらけの手足を洗った。
水から上がり、衣服を身に着けようとかがんだとき、突然、背後から声がして金の目は振り返った。
「相変わらず、きれいだなあ」
 そこには、賞賛のまなざしをもって左利きの兄が立っていた。
「久しぶりだね」兄の姿は、別れたときのままだった。肌も、髪も、なに一つとして歳月を重ねた気配はなかった。兄は、石工の目で金の目の全身を眺め、誉め言葉をいくつか述べた。
「石ばっかり見ていると、生身のものの良さが、しみじみとわかるようになるよ」
 そう言って、右利きの兄は、近くの木の枝をたわめたかと思うと、手を離した。はじかれた枝の先の木の葉が揺れた。
 兄は、その様子を眺め、音を聞き、満足そうに笑った。
「揺れるし、柔らかいし、いろんな音が鳴る」

「でも、こういうものも全部、原型はあなたたちが作っているのでしょう?」金の目は訪ねた。
「そうなのだけどね。僕たちが触れるのは、まだ石の状態のときだけだから。いつも硬くて、本物より少し冷たいよ。
命を吹き込むのは、女王様だし。」
左利きの兄は、山にある柔らかそうなものを片っ端から触っていたいようだった。
「こういうちょっとした触感も、できれば石のうちから表現したいんだ」金の目は、またもや左利きの兄の意識は、自分ではなく、石とその石から自分が掘り出すもの、そこへ向かっているのを理解した。
 だが、それもまた、金の目が愛しく思ったものの一つだった。そして、その感覚が何年たった今でも変わらないことを、金の目は自覚した。
 静かに揺れる草、注いではどこかへ流れ続けていく泉の水。そんなものを研ぎ澄まされた表現者の目で確認していた。一通りながめまわしたあと、左利きの兄は振り返って呟いた。
「君が、作っている、あの、銀の詩のような刺繍。あれはすごいよね。山を抜けていくそよ風みたいなものまで表現されている」
「まあ。見たことがあるの?」
「この山で起こっていることは、僕たちには全部筒抜けなんだ。
女王様も、君の刺繍は素晴らしいと言っていた。世界のどこにも、あんなものは存在しないと」
「そう……それは、その」あのとき、女王の渓谷でみた絶対的に本物ななにかに、少しでも自分のできることのなかで近づきたかったから… そう金の目が言おうとしたとき、窪地の上に人の声がした。金の目の名を呼んでいた。
「もう行かなくちゃ! いなくなった石工は、僕たちと一緒に幸せに働いているよ、と村の人たちには伝えてよ。あと、君の刺繍は本当に素晴らしいから、作り続けてほしいよ」 左利きの兄は、金の目の手のひらになにかを押し付けると、走り去った。金の目は、自分の裸体がひとめに触れないように、服を手繰りよせるのに忙しく、行方を目で追うこともできなかった。
 窪地の上の草が揺れ、姿を現したのは右利きの弟だった。
「もう一人、行方不明者を出してしまったかと思ったよ。」
安心した表情で、金の目のそばに走り降りてきた。

「さっきまで、左利きの兄がいたわ。これをもらった。」金の目がそっと手のひらを開いた。渡り鳥の雛が乗っていた。秋になったらこの地から飛び立っていく予定の渡り鳥は、今が雛を産み育てる一番忙しい時期だ。七色に輝いていなければ、石でできているとはわからないほどの出来栄えだった。
「兄は、どこに消えたんだい?」金の目は、兄が消えた方角を指さしたが、そこには人影はなにもなかった。
 二人は昔の思い出を、少し語りながら、山をくだった。途中で捜索をあきらめた人々に合流したので、彼らに兄からの伝言を伝えた。


 また何年もたった。
 年を取って、子供たちが巣立ったころから、右利きの弟は、時々、注文以外の品もつくるようになった。
 題材を、周辺の自然から作ったそれらの品々には、蜘蛛がいて、鹿がいて、熊がいた。
そよぐ葉がきらきら光る木があり、豊かな表情を見せる花があった。
 工房の裏にある棚には、この山にいるすべてのものが、光を放ちながら並んでいた。
 その中で、いちばん多いのは、渡り鳥の雛の細工だった。
 それらは今にも動き出しそうだったけれど、決して動き出すことはなかった。
 かつて彼がノミをふるって削り出した、命の輝きが宿ることはなかった。
 どれほど丁寧な仕事をしても、失われたものが戻ることはなかった。
 とてもよくできているので、言い値でいいから売ってくれという商人もいたが、すべて断っていた。
「ここには、売るような値打ちがあるものは何もないから」いつもそう答えた。何度聞かれても答えは同じだった。


 ある時、右利きの弟は、暖炉の前で温かいお茶を飲んでいた。
 足元に遊ぶ、孫がいた。

「おじいさんは、昔、石の女王にさらわれたんだって聞いたよ」
 好奇心いっぱいの目で孫が訪ねた。
「さらわれたというのは正確じゃないね。
何かを探していて、自分から訪ねて行ったんだ」

「何か、ってなに?」
「行方不明になった兄と、自分の中の可能性みたいなものかな」
「どちらも見つかったの?」
「見つかったよ。」
「……でも、そのお兄さんって人は、僕たちは知らないね」
「ああ、帰ってこなかったからね」
「それはどうして?」
「どうしてかって。
あれほど特殊で素晴らしい体験は、そうそうないからね。
どれ、話してあげよう。小さかった頃に……」

 昔話を聞き終えて、孫はまっすぐな目で質問をした。

「おじいさんは、あの時、おばあさんが迎えに行かなかったら今よりもっと幸せだった思うことがある? そのまま山に残っていたら、って」

「そうさね。」
 老人となった右利きの弟は、お茶のカップを揺らしながら答えた。

「答えは『はい』のようで『いいえ』かな。
どう生きても幸せ。どう生きても不幸。右の道か左の道かを選びながら、だんだん両手の天秤がいっぱいになっていくのが人生だ。
右に進んだら左の道を生きることはできない。両方を達成することは、できないんだよ。
山に残っていたら、お前たちにも会えなかった。だけど、山に残っていたら、もっともっと石工としては高いところに登れたかもしれない。」
「ふうん」
「だけど人生の『もしかして』なんて数えたらきりがないんだよ。
残っていたからといっても、石工としての能力に限界を感じていたのかもしれない。石工の腕前によって、女王は仕事を割り振りするから、大きくてむつかしいもの、繊細で技術がいるものは、やっぱり一生作れないのかもしれない。山の女王のもとにいる一生が、どのくらいの長さなのかは知らないけれど」
右利きの弟は、孫の頭を撫でた。
「そもそも、帰ってきてはいるが、その後の暮らし方如何によって、お前たちに会えなかった可能性もある。おばあちゃんは知っての通り強い女性だからね。
機嫌を損ね続けていたら、子供たちだって授かったかどうか……。」

 金の目は、時の流れの淀みの中に、身を潜めるように生きていた。
 本人の暮らしは変わらなかったが、周囲は少しずつ、そしてすべて変わっていった。
 日々を静かに暮らしながら銀の刺繍を作り続けていたら、いつの間にか、『山の芸術家』と呼ばれるようになっていた。

 ある時、誰かに呼ばれるような気がして、いつもは避けている方角の山に分け入った。
もう若くはなかったが、毎日、山を歩いていたので足取りは確かだった。
 尾根を超えたところに、人影が見えた。

 何十年前と変わらない、左利きの兄がそこに立っていた。
 左利きの兄がじっとこちらを見つめるので、前回あったときよりも、はるかに年を重ねた自分が少し恥ずかしくなった。私の魂の入れ物としての肉体は、だいぶん、くたびれてしまったわ。そう思ったが、何もいわなかった。

「長いこと、人間らしい言葉をしゃべっていなかったもので……」
 左利きの兄がかすれた声で話始めた。
「うまく声が出ねえ。久しぶりだ。相変わらず、きれいだな。今日は、迎えにきたんだ」

 金の目は、これはもしかして噂に聞く、天からのお迎え、ってやつかしら。と心の中で考えた。
 その心を見透かしたように、左利きの兄が言った。

「死ぬ時期が来たってことじゃあ、ねえんだよ。
山の女王が、おまえさんを呼んできてくれっていうもんだからね」


「私に、なんの用かしら」

「知らねえ。でも、呼んできてくれって言われたよ。
こんなこと、初めてだ。人間とは極力かかわらないように過ごしているんだから。」

 左利きの兄は、歩き始めた。金の目は、おとなしくついていった。
いくつか尾根を越え、左利きの兄は、山にむかって叫んだ。

「女王様、金の目がやってきました」
 山肌が開き、石の渓谷が現れた。

 奥へ進むと、掘り出されたバルコニーの上で石の女王がすくっと立っていた。
「よく来た。
長い道のりだっただろう」

 女王の目は、金の目の背後にあるものまで見据えているようだった。
「絶対的なものを探しだそうとする、その心意気を長く、見守らせてもらっていた」

 金の目は、何も言わなかった。
 誰かに頼まれてそうしたわけでもなく、自分がやりたいことだけをやってきた。
 若かったとき、この山で見た圧倒的な何かを、自分も再現したくて、ここまでやってきた。
 だけど、それは女王のためではない。山のためでもない。村のためでもない。自分のためだ。利己主義かもしれないが、やりたいからやってきただけだ。
「若いころに、男に捨てられてあの人は不幸だ」からそっとしておいてあげてという者たちもいた。どうして自分は人と同じように生きていないのだろうと、ふと我に返って不思議に思うことも何度かあった。でも、そんなことは自分にとって大事なことではなかったのだ。
 心の内側にあるなにかを温めて温めて、映し出す。銀の力を借りて映し出す。
 その時間が、自分にとっては大切だったのだ。心の中にある源泉から湧いてきた水を、枯らさずに、この世界に流しだすこと。
 ときどき、そうやって作った品が誰かに何かに触れることもある。でも、それすらも大切ではない。
 なにかを作り出す時間が持てるだけで、私は、幸せだったのだ。

 そんなことを、金の目は考えていた。

 凍った湖の上で、左利きの兄と別れてから五十年が経っていた。

 左利きの兄は、ひとつも変わらない。そして、相変わらず石のことだけを考えて幸せそうに見えた。
 生きることとはなんなのか。
 ひと彫りひと彫り、何かの作品を作る時に進むように、日常を積み重ねていくことだろう。
 でも、それができない人もいる。
 それはそれで、どうしようもないことだ。
「あのとき、この人を、約束を盾に縛りつけなくてよかった。」

 金の目は、左利きの兄の横顔を見ながらそんなことを考えた。

 女王は、白い手を持ち上げて、結い上げた髪のてっぺんから、小さな王冠を引き抜いた。
「今、バトンを引き渡す日がきた。」

 そして、王冠を、金の目の額の上にさした。

「あっ」と小さな声をあげた瞬間に、金の目の山の日差しに焼かれた肌がスッと白くなり、額や目の横に刻まれた皺も消え、極上の大理石になった。
 寒さも暑さも、もう感じなかった。
 来ていた衣が剥がれ落ち、新しく女王のローブが巻かれるのがわかった。山の木々、凍った小川の破片、虫の繭、そんな山からの贈り物でできていた。

「あとは任せた。
私は、きっかり千年ここにいて、そろそろ元の居場所に帰ろうと思う。」
話しながら、女王の声が小さくなった。山の女王の姿そのものも小さくなった。春の光に照らされた雪だるまのように小さくって、やがて跡形もなくなった。

 金の目は、いつのまにか新しい山の女王になっていた。

ありがとうございます。毎日流れる日々の中から、皆さんを元気にできるような記憶を選んで書きつづれたらと思っています。ペンで笑顔を創る がモットーです。