人生はちょろりんピック

大学生の後半から社会人序盤にかけて、自分を見失いがちだった。

他人に対して攻撃的になって、不機嫌であることが正しいかのように振舞っていた。
見知らぬ他者の落ち度をあげつらう事が、世間に対する義務であるかのような顔をしていたと思う。

平日夜の地下鉄のホームで、酔っ払って周りにぶつかりながら歩くサラリーマンを見て、

「自分の許容量も分からずに飲んで周りに迷惑かかるなんて馬鹿じゃん。」
と放言することで、自分を表現できているつもりになったりもしていた。

一緒に電車を待っていた人に

「会社の飲み会かもしれないよ。本人は飲みたくなくても飲むしかなかったのかも。」

と指摘されても「それはそんな会社に入った人が悪いんでしょう」と幼稚な自己責任論を振り回したりもした。

端的に言うと余裕が無かったんだと思う。

自分の生活が正しいのか分からず、かと言ってその不安を認めることもできず、プライド(と自分が思うもの)を守ろうとした結果、社会規範を後ろ盾にしようとしていた。

勝手な社会規範を都合よく引用してきて他者を批判することで、相対的に「正しい」自分はより良い人生を歩むはずだと己を安心させていたに過ぎない。

生活リズムを崩して授業に行かなかったり、将来を真剣に考えることをサボったりする事によって生じた焦燥をヘイトによって誤魔化していた。

人間はペンを一本しか持っていないので、他者を批判する言葉を書きながら内省する言葉を書くことはできないのだ。

と過去の自分を反省してみているが、未だに完全に安全になったと言い切る自信はない。

負の性格というのは疲労時にのそっと顔を出してくるものなので、今後もうまく手綱を握って生きていく事になるのだろう。

ただ、幸いなことに僕には理性がある。
どうやら自分の思考回路が歪んでいるぞ、という事に遅ればせながら気がつく事が出来た。

先日、千鳥足で駅の階段を上るサラリーマンを見た。足を踏み外すかもしれない」と判断し、その人の二、三段下を歩く事ができた自分に多少の希望を見出している。

余裕がない時代を経験した後も、相変わらず「人生はちょろりんピック」を標榜して暮らしている。

ただ、「軒並み自分の思い通りになるでしょ」という考えることはなくなって、
「辛い時期もあるがなんやかんや最終的に目指した所に着地することができるはず」という謙虚な(?)考え方に変わった。

ちょろく無い時はちょろい所を目指して頑張るしかないんだろう。

人生は訳の分からない所で不機嫌になる為にあるのではない。

旅行の前、駅構内で焼きたてのパンを選びながらワクワクしたりするためにあるんだ。

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