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年の初めのnote論

2019年初投稿です。

あけまして…というタイミングでもないですが、写真は年賀状用に妻とふたりで作ったイノシシの切り絵。

年初ということで、2019年もnoteへの投稿を続けていくにあたり、昨年使い始めてからnoteというウェブサービスについて漠として考えていたことを整理してみたいと思います。
多分これまでもいろんな人にいろんな形で語られてきたことだとは思いますが、地方の一小市民の極私的な観点から。

Facebook:5
Twitter:28(含RT)
Instagram:15
Tumblr:4

2018年一年間の各種SNSの投稿数です。
これでも体感としては例年よりも割とよく使ったなぁと感じているくらいなので、僕のSNSとの距離感ってだいたいずっとこんな感じです。

年明けにEテレで放送していた「平成ネット史(仮)」という番組を見ながら改めて思い返していました。
個人的な体感としては、ブログブームの頃は、ブログの他に自作のホームページを置いてたり、それなりに能動的に情報発信していたのが、SNS時代に差し掛かると情報を発信することに興味を失っていて、主にTwitterで巻き起こっている諸々も、現象としてはいろいろと見聞きして知ってはいるものの、当事者としては全く関与してこなかったなぁと。
リアルな生活の変化も関係しているので、一概にネットの潮流が変わったことを原因とすることもできませんが、SNS的なものに距離を置いていたことは確かです。

note:22

冒頭の数字を踏まえた上でnoteの投稿数を見ると、7月から始めてこの件数は自分的にはなかなか大したものだなと思います。毎日更新している方とかほんとに尊敬しますけど、僕には無理なので、このくらいの更新ペースが自分の思考や生活リズムには合っているようです。

noteをどの程度SNSとして捉えるかはちょっと脇に置くとして、長らくSNSに積極的にコミットしてこなかった僕がなぜnoteではこれだけ持続的にやれているのか?(といっても半年ですが)
それにはいくつかの個人的な動機付けもあったりはするんですが、noteという場に元来備わっている設計思想とか投稿に向かわせるインセンティブが鍵になっていると感じています。

1.絶妙に敷居が高い(≒絶妙に敷居が低い)

ピースオブケイクのミッションには、
「だれもが創作をはじめ、続けられるようにする」とあります。
そして、「クリエイターが活躍できる市場をネット上につくります。」と続きます。

CXO深津さんのnoteにも。

また、noteのステートメントは「つくる、つながる、とどける。」
「つくる」が先頭にきています。

一億総クリエーター時代と言われて久しいですが、じゃあ自覚的に自分はクリエイターだと考えている人は一億分の何人だろうと考えると、一気に何千分の一かになってしまいそうな気がします。
その上で上記のミッションをひと連なりの文として読むと、「だれもが」と「クリエイター」は等価のものとして結ばれており、「あなたもクリエイターなんですよ」というメタメッセージが含まれていることが読み取れます。
「クリエイター向けのサービス」という一見すると敷居の高い場の設定と、「全ての人がクリエイターなんですよ」という超オープンなメッセージが、これからnoteを始めようとするユーザーにちょっとした自己の再認識/覚悟を迫る。
ここで、とりあえず適当に放言する場所が欲しいという程度の意識のユーザーが振るいに掛けられてるんじゃないかと思います。

2.リポスト機能がない。

noteの投稿画面とtumblrの投稿画面はとても良く似ています。

但し、決定的に違う部分がリポスト機能がないこと。
この機能がないせいでTwitterなどに比べて拡散力が劣ってしまうのかもしれませんが、それ故に情報のスピード感がゆったりしています。
また、それ故に「全体」が見えにくく「空気」が生まれにくい。

「全体」と「空気」を括弧付けにしたのは、本当はそんなものはないからですが、Twitterのタイムラインが似たようなトピックのリツイートで埋まったり、Facebookのタイムラインが似たようなシェア記事で埋まったりすると、あたかもそれが社会「全体」のように見えてしまったり、逃れられない「空気」を読みとってしまったりする。TwitterもFacebookもたまにしか覗かない僕ですらそんな印象を受けます。

こんなふうに共感性が高まり過ぎることがないところが、個人的にはnoteの居心地の良いところだと感じています。

3.情報がキュレートされている。

そんな「全体」や「空気」が見えにくく設計されているnoteの中で情報の拡がりを補完するのが、お題テーマや公式のおすすめ記事のピックアップ、公式まとめマガジンです。

キュレーションという言葉をアート界隈ではなく、ウェブサイトなどの文脈で聞くようになったのは、個人的な観測では2013年頃。使われ出したのはもうちょっと前からなのかもしれませんが。
こういう表現が使われ出した背景には、スマホとSNSの普及でインターネット上の情報が急激に速く・多くなって分断化されていく中で、いかに情報を整理するかが重視されてきたという時代背景があるのかと思いますが、2014年からサービスを開始している後発のnoteは、それ以前のプラットフォームが最大限自由な場としてユーザーが自由に振舞うことができる環境を提供してきたことの負の側面(炎上、同調圧力、分断.etc)を乗り越えようとしたんじゃないかと想像します。

だから、おすすめ記事もまとめマガジンもお題テーマも全てユーザーから自然発生的に生まれるものではなく、クローズドなメンバーによって管理・調整されている。と表現すると、見方によっては仮構されたユートピア(=実はディストピア)とも捉えられるし、ポストトゥルース時代に対するバックラッシュとも捉えられるかも知れません。
但し、サービス全体をある編集方針の元に編まれた雑誌だと理解すれば、この在り方にも納得です。

でも「#noteでよかったこと」というお題とか、ポジティブな反応しか返ってこないことがあらかじめ設定されてて、ちょっとずるい(笑)

で、なんだかんだ言ってこの仕組みこそが、隅っこの方でこそこそやっている、別に有料コンテンツを販売したりするつもりもない僕のようなユーザーが投稿し続けるインセンティブになっていたりするのです。
ダッシュボードを見ると、ひとつの投稿につき平均して120ビューくらいしか読まれていないのですが、「#デザイン 記事まとめ」に取り上げてもらった下の記事だけは1700ビュー以上付いていたりする。

使い始めて割と早いタイミングでこういう体験をしたので、そこを越えるものを書こうというインセンティブが働いて、今もこうして乱文を書いている次第です。

4.青緑

青緑のキーカラーに装飾がなく余白の多い白い背景。
自分の使っているウェブサービスとかアプリで青緑を使ってるものってほぼなくて(他はBacklogくらいか)、noteのアイコンはスマホのホーム画面の中でも独特の柔らかな印象を醸し出しています。
このサイトデザインを前にしてあまり攻撃的なことを書く気も起りません。(もともと書く気もないけど)
それに、エディタの時点で美しく文字が組まれていくのを見ていると、何か実際以上に良いこと書いてる感があるし、文字装飾などの選択肢が少ないのも文章そのものにフォーカス出来て、筆が進みます。

…と、実際にどんなふうに運営されているかろくに知りもせず、狭い観測範囲で当てずっぽうでいろいろ書きましたが、書きながら、noteを使っていてどのポイントに心地良さを感じているか自分なりの整理ができました。
今年もぼちぼち書いていこうと思います。

ところで、スピードの速いSNSに端からコミットできなかった僕のような人間がどのくらいいるのか分かりませんが、ネット上の情報スピードに絡んだ話で今年楽しみにしているもののひとつが、ここのところ宇野常寛さんが提言している「遅いインターネット計画」です。

速報性がなくて参加型でもなくプッシュ型でもないウェブサイトを日常的に訪れる存在感のあるものにするのってめっちゃ難そうと思うんですが、それがどんな形で実現するのか、今から楽しみです。

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