全てではないけど、今いる場所は、これからも続けたいことは、自分が選択したものだと言える。と思う。

頑張りが報われたとルンルンで帰る夕暮れ時も、どうすればよかったのだろうかと結論の出ない考え事をしながら、もやもやした気持ちを抱え重い足取りの帰り道も、私が選んだ結果。

それが良いのか悪いのかは分からない。本当は全部、なんとなく、なるようになってるだけかもしれない毎日をどうにか生きるためにそう思おうとしているのかもしれない。流されているんじゃないと言い聞かせないと、いつかどうにもならなくなってしまうからかもしれない。


これからどういう方向に進んでいくのだろうとよく考える。車で仕事に向かうとき。ひとりで黙々と単純作業に勤しむとき。友達と会うとき。夜にテレビを付けながら、横にごろんとなりながら旦那と話すとき。

それぞれに思い付くことも出てくる言葉も違っているから面白いよそ行きのことを言うとかじゃなくて、きっと環境や立場によって全く別の自分がいるからだと思う。からだは一つなのに、色んな私がいて、色んな側面があって。それがまた統一されるわけでもなく、ちぐはぐでいるからややこしくなる。


悩みは尽きない。
それは波のよう。悩みは打ち寄せて、また引いて、また違う波が来て、それをずっとずっと繰り返す。ただ何の意味も持たずひたすらに。

それが悲しいことだとか、何かの試練だとか、そんなものは波に打たれるこちらが勝手に考え決めていることでしかないんだろう。


波が静かで穏やかなときは、なんとなく乗り過ごしてみたりして、なんか大したことなかったなあだとか、ちょっといい気持ちになって余裕綽々になったり。そんなんでいたら、ふと気が付いたときに前からは遠くの、思いもしなかった場所まで流されていて、やっとはっとしたりして。

荒々しくこちらを飲み込もうとするときは、それに抗うのに必死で、落ち着いて周りを見ることすら出来なくて、これが早く過ぎてくれないかと、ただ祈るだけだったりするのかもしれない。


私たちは波を変えたりすることはできないだろう。何を思って進むのかだけがきっと変えられる。

波に逆らって進もうとするのか、それとも身を任せていくのか、何が正解で間違いでもないんじゃないのか。だって、流されたその先には宝島があったりするのかもしれないし。


なんだっていいのだ。どんな波でどこに行こうと、私がこの方に行こうと決めさえすれば。


布団に潜る前に、こんなことを考えていたと一通り旦那に話すと、そうかもしれないねと明らかに呆れが含まれる笑いをこぼして、少ししてそのまますうっと眠るまでを見ていた。




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めし

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